月ヶ瀬村とは?奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件の概要や丘崎誠人!

今は消滅している奈良県月ヶ瀬村で、1997年5月、女子中学生が殺害されるという痛ましい殺人事件が起こりました。村社会の闇ともいえる村八分や差別が引き金となったと言われる奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件の概要や犯人である丘崎誠人の人物像にせまります。

月ヶ瀬村とは?奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件の概要や丘崎誠人!のイメージ

目次

  1. 1月ヶ瀬村とは?月ヶ瀬村女子中学生殺人事件の概要など
  2. 2月ヶ瀬村とは?
  3. 3月ヶ瀬村女子中学生殺人事件の概要
  4. 4発見された被害者
  5. 5丘崎誠人の生い立ちや経歴
  6. 6そして殺人事件へ
  7. 7月ヶ瀬村女子中学生殺人事件の判決は?
  8. 8月ヶ瀬村の現在は
  9. 9村八分と差別による殺人を犯した悲しき鬼、丘崎誠人

月ヶ瀬村とは?月ヶ瀬村女子中学生殺人事件の概要など

奈良県にかつて存在していた、奈良県月ヶ瀬村という村はご存じでしょうか。この村で村八分と差別が引き金となった、奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件がおきました。

1997年5月4日、奈良県月ヶ瀬村で月ヶ瀬村に住む、中学2年生だった浦久保充代さん(当時13歳)が、卓球大会帰宅途中に行方不明となりました。村人、警察による懸命な捜索の結果、充代さんのスニーカーが見つかり、付近の道路にはスリップしたような不自然なタイヤ痕、ガードレールには血痕が付着していました。

さらに近くの西部浄化センターの公衆トイレでは、切り裂かれた充代さんの体操着と血だらけのダウンベストが発見されました。警察はひき逃げや事件に巻き込まれた可能性が高いとして捜査を開始、同年7月23日に月ヶ瀬村に住む当時25歳だった丘崎誠人が逮捕されました。

丘崎誠人は、車で通りかかった帰宅途中の充代さんに「乗っていくか」と声をかけたところ、無視をされて憤慨し激高、そして殺害に至ったとのことです。これが現在、奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件として日本の犯罪史に名を刻むこととなりました。

 

月ヶ瀬村とは?

月ヶ瀬村女子中学生殺人事件がおこった月ヶ瀬村は、今はもう存在してはいません。それでは今現在の月ヶ瀬村はどこにあるのでしょうか。
 

現在の奈良市月ヶ瀬

今は存在していない月ヶ瀬村は、2005年(平成17年)4月1日、山辺郡都祁村とともに奈良市へ編入されたことから消滅しました。現在は奈良市月ヶ瀬にあたります。

梅まつりが開催され、梅の花が咲き誇る自然豊かなこの地で、奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件が起こりました。

月ヶ瀬村女子中学生殺人事件の概要

犯人である丘崎誠人がおこした月ヶ瀬村女子中学生殺人事件の概要は一体どんなものだったのでしょうか。
 

1997年5月4日月ヶ瀬村に住む中学2年女子が行方不明に

月ヶ瀬村に住む中学2年生浦久保充代さん(当時13歳)が行方不明となったのは1997年5月4日の事でした。卓球大会の帰宅途中に行方がわからなくなったのです。

家族が警察へ通報し通学路周辺を捜索

「夕食の時間になっても充代が帰らない」卓球大会を終えて、帰宅予定時間を大幅にこえても帰ってこない充代さんを心配した母親の博子さん(当時42歳)は午後8時頃に学校へと連絡しました。

事態を重く見た学校関係者、村民、警察による捜索が開始されました。そして、充代さんは見つからないまま最悪の事態へと発展してしまうのです。
 

自宅近くの県道で女子中学生の靴を発見

通学路や充代さん宅の周辺を捜索していると、帰り道の村道脇の川で、充代さんが登校時履いていた物とされるスニーカーが発見されました。

そして、付近の道路にはスリップによるタイヤ痕が見つかり、さらにはガードレールに血痕が付着しているのが見つかりました。そのため、奈良署は充代さんが交通事故に遭い、その後連れ去られたのではないかとみて、捜査を開始したのです。

近くの公衆トイレより切り裂かれ血痕がついた衣類が発見

捜査を開始して、同日夜には西部浄化センターの公衆トイレで、切り裂かれた充代さんの体操着と血だらけのダウンベストが発見され、事件は深刻さを増す一方でした。住民も少なく、訪ねてくる人も限られてくる小さな村で起こった行方不明事件は、瞬く間に村中に広まり、すぐに犯人ではないかと疑われる男が浮上しました。

充代さんを捜索していた人々の中にも、その男の姿はありました。
犯人と疑われるその男は、丘崎誠人(当時25歳)、浦久保充代さん宅からほど近い場所に住んでいました。

早い段階から疑いの目は向けられており、自分だけが周囲から違う目で見られていることに気づいていたのか、丘崎まは逃げも隠れもせず、あらか様に疑うマスコミの前で吠えるように威嚇しました。

よれたTシャツに短パン、サンダル履きの痩せたひげ面の丘崎誠人は、瞬く間にワイドショーの格好の餌食となり、独占インタビューを申し出るマスコミが後を絶たなかったというそうです。

同村で無職の丘崎誠人が逮捕

充代さんを跳ねたと思われる車は、早い段階で、そのスリップのタイヤ痕から大型の4輪駆動車であると言うことが特定されていました。

周辺の該当者はおよそ5千台、その中に丘崎誠人が所有する車(三菱ストラーダ)が含まれていました。しかし所有しているだけでは、充代さんを跳ねて連れ去るという事件を起こしたという裏付けが出来ずに、周囲で丘崎誠人を疑う声が大きくとも逮捕までには至りませんでした。

事件が大きく動いたのは7月に入った頃、丘崎誠人が所有する車を売却したのです。警察はすぐに売却した車を任意提出してもらい、車内の捜索を始めました。

すると座席のシートから血痕を発見され、充代さんと同じDNAの血痕と判明し、そして、先に発見されていた充代さんの血痕が付着したダウンベストから毛髪がついていた事がわかり、その毛髪が丘崎誠人と同じAB型であることが判明したため逮捕に踏み切ったのです。

奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件として充代さんが行方不明になって、すでに2ヶ月以上が経過していて季節は春から夏になった7月23日の深夜3時に丘崎誠人は未成年者略取の疑い(このときまだ充代さんは見つかっておらず、奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件ではない)で逮捕されました。

連日詰めかけていたマスコミの怒号や丘崎誠人の家族の叫び声に、辺りは地獄絵図のようでした。
 

発見された被害者

逮捕された丘崎誠人により、今だ行方不明のままだった浦久保充代さんの遺体が、無残な姿で発見されることとなります。
 

丘崎誠の供述により被害者が発見される

丘崎誠人の逮捕により事件が解明されるだろうと思われましたが、充代さんの所在は依然として行方不明のままでした。

丘崎誠人は逮捕されてから警察の取り調べに応じず、黙秘を続けていましたが、8月1日に何故か突然、事件に関する自供を始めて、三重県上野市の山中から充代さんが変わり果てた姿で遺体となって発見されたのです。奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件として連日多くの報道がされました。

 

取り調べに応じた理由

その後の調べで、充代さんは跳ねられ、意識が朦朧としているところ、首を絞められて、それでも絶命しなかったため、その辺に転がっていた大きめの石で顔や、頭を殴り死亡させました。後に頭蓋骨骨折による脳挫傷で死亡していたことがわかりました。

報道によると、取り調べの刑事から、「お盆までに返してやらんか」等の説得に応じたという話や、たまたま隣にいた別の事件の犯人から諭されたという話がありました。そこで心を入れ替えたのか、供述の前日にひげを剃り、意を決したように取り調べに応じたそうです

丘崎誠人の生い立ちや経歴

丘崎誠人はが犯行に至るまでに歪んでしまった人格、たまりにたまった恨み辛みは一体どのように形成されていったのでしょうか。生い立ちを見てみましょう。
 

朝鮮人と日本人のハーフ

丘崎誠人の両親は日本人と朝鮮人のハーフで、元より良く思われてなかった二人はダムの労働者として働いていた父親が母親と出会い、内縁関係を続けたまま、村人が物置小屋として使っていた小屋に住み始めました。この頃から、村八分による差別が続くのです。
 

お風呂もトイレもない物置小屋のような家

奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件の背景には丘崎誠人という人物の背景が大きく関わってきます。逮捕前から丘崎誠人は、暴れ怒声を浴びせるという姿を晒し続けていたため、凶暴な常軌を逸した男というイメージが付きまとっていました。

しかし、事件が解明されていくにあたり、事件の元となる要因は丘崎誠人だけではなく丘崎家そのものに対する、村社会の闇である村八分による差別ではないかと言われ始めました。

丘崎家は家族7人で風呂もトイレもない林の中にある物置小屋のようなところに住んでおりかなり劣悪な環境で育ったとされています。丘崎家は月ヶ瀬村の住民から「チョーセン、チョーセン」と言われ酷い差別を受けていたそうです。

丘崎家は村八分だった

当時の月ヶ瀬村はお茶農家ばかりの村で、別の仕事をしていた丘崎家は村に馴染まない存在だったそうです。さらに月ヶ瀬村の与力制度があり、それに入るには、二人の紹介者がいないと入ることが許されないという厳しい決まりがありました。

昔から住む住民たちの結束が固い月ヶ瀬村で、よそ者であり差別対象である丘崎家は長年月ヶ瀬村に住んでいるにも関わらず、村の与力制度に入ることを許されず、村八分であり差別される状態が続きました。

村で火事が起こったり、祭りなどで現金が無くなった時など、真っ先に丘崎家が疑われるなど、止まぬ差別に丘崎誠人は月ヶ瀬村住人に対し激しい憎悪を持っていったと言えます。

中学で不登校に

差別を受け続けていた丘崎誠人は次第に心を病み、誰も近づくこと無く、学校では友達も出来ずに、一人で過ごすうちに、中学2年生になる頃には不登校になってしまいました。

教師がえこひいきという差別をしていて、決定的になったのは花瓶を割った際に丘崎誠人の言い分だけは聞いてもらえず、体罰をするということです。そこがら一切、登校することが出来なくなりました。

その間、教師が家を訪ねたのが2・3回で、卒業証書はクラスメートに、給食のパンでも届けさせるような感じで届けさせました。

丘崎誠人は、あまりの悔しさから、翌日卒業証書を破り捨て、燃やそうです。ますます丘崎誠人は心が荒んでいきました。

中学卒業後は奈良県内の測量事務所でアルバイト

中学を出た丘崎誠人は、同級生らに「この村が嫌いや、出て行ったら二度と戻らん」と話しました。そして、ついに村を出る事にしました。奈良県内にある測量事務所でアルバイトを始めるのです。

大阪の専門学校へ通うが卒業できず

測量事務所でアルバイトをして半年ほどがたった頃、丘崎誠人は大阪の専門学校に入学しました。しかし卒業することができずに専門学校を中退、次々と居場所を転々とする丘崎誠人は東京に移り住みます。啖呵を切って月ヶ瀬村でた丘崎誠人にとって現実はそう甘くはありませんでした。
 

東京へ上京して住み込みの見習い調理師として勤務

大阪の専門学校を中退した丘崎誠人は、東京で見習い勤務として働き始めました。しかしここでも長くは続きませんでした。

遅刻を繰り返し、注意されるとカッとなって怒りだす丘崎誠人は仕事をすぐに放り出すようになります。丘崎誠人の両親が放任タイプであったため他人から叱られるという経験が乏しく、それが後々の丘崎誠人の人生に暗い影を落とすことになりました。

1年で仕事を辞めて月ヶ瀬村へ戻る

住み込みの仕事が合わず丘崎誠人はわずか1年で仕事を辞めて月ヶ瀬村に戻ってきました。18歳頃までは月ヶ瀬村の実家でぶらぶらと過ごしていました。

しかし、親戚が営む左官会社で修行を始めても、遅刻は常習、些細なことを注意するとすぐに不機嫌になり、またしても続かず、親戚の口添えで働いた工務店でも同じ事の繰り返しでした。

やがて働かなくなり、差別がはびこる忌み嫌う月ヶ瀬村で、テレビゲーム・ビデオ・車ばかりにのめり込み遊んで暮らすようになりました。
 

そして殺人事件へ

運命の歯車が狂った1997年5月4日、いつもの通り道で丘崎誠人は、帰宅途中の浦久保充代さんと出くわし、月ヶ瀬村女子中学生殺人事件へと発展してしまうのです。
 

蓄積された恨みが爆発

丘崎誠人は事件の二ヶ月前に、奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件の引き金となる車、三菱ストラーダを購入。

5月4日、丘崎誠人はなんとなくウキウキした気持ちで車を運転していました。ふと見ると、B地区に帰る途中の充代さんが歩いていました。B地区までまだ距離がある、坂もある、あの子を家まで送ってやろう・・・。ふとそんな親切心、好意が自然と生まれました。

気軽な思いで「乗っていくか」と声をかけたところ、被害者の充代さんは被告人である丘崎誠人をちらっと見ただけで、呼びかけを無視し、返事もしませんでした。

そして、今まで受けてきた差別による恨みが一気に爆発して、奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件を引き起こしてしまうのです。


 

月ヶ瀬村女子中学生殺人事件の判決は?

逮捕された丘崎誠人の供述により、今まで行方不明だった浦久保充代さんの遺体が見つかり、丘崎誠人は殺人・遺体遺棄の罪で裁判にかけられることとなりました。
 

殺害動機は差別や村八分による怒り

奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件を引き起こした被告人である丘崎誠人は、被害者の浦久保充代さんに親切心で声をかけたのに無視をされ、激高ししました。そして、歩いている充代さんの背後から車で轢いた後、発覚を恐れて近くの公衆トイレで頭部と顔を、石を使い数回に渡り殴って殺害しました。

記録によると丘崎誠人の供述で
「顔見知りの私が親切に声をかけているのですから、せめてお爺さんが迎えに来ますから結構ですとか、家がすぐそこですので結構ですとか一言断ってくれたら、腹が立つ事は無かった」

「このようにして自分を無視した充代さんとB地区全体の人間に対する憎しみが一緒になり、頭の中がパニックになった」

「そんな腹立たしい気持ちで車を走らせているとき、完全にキレてしまい、許さん、車を当てて連れ去ってしまおう、最低でも見動き出来ないようにしてやろう。」

「月ヶ瀬村の者が一人でもいなくなれば村の全員が心配して恨みがはらせる絶好の機械や、チャンスやと考えた」
「俺や家族をよそ者扱いする村の人間、風習、しきたり、すべてがが嫌いだった。」

「幼少の頃から貧しい家に育ち嵩地区の他の家と同レベルの生活をする事が出来なかった事に加え母親が文盲で、しかも父母の姓が異なるということで、他人とは異なるという認識を持っていた。」
丘崎誠人はこう語りました。

無視をされたことにより、自分に対する差別の現れ今まで蓄積されてきた差別に対する怒り、恨み辛みが爆発し、暴走したあげくに犯行に至ったということでした。
 

丘崎誠人への判決は無期懲役

丘崎誠人には弁護士が3人付きました。その中の一人、高野弁護士は、丁寧に時には情熱的に丘崎に向き合い、心の声中を一つ一つ探って行きました。しかし、丘崎誠人は、心をとざし、検察はもちろん弁護人にも最後まで心を開きませんでした。

事件発生から3年後の2000年6月、大阪高裁は一審判決を破棄し、丘崎誠人に対して無期懲役の判決が下されました。

高野弁護士始め弁護団が、殺害した事実については争わないとしながらも、その背景にある差別を抜きで語るのであれば承服し得ないとして、控訴審での無期懲役を不服とし、最高裁に上告しました。

そして、上告を進める弁護団に対し、丘崎誠人は判決を聞いても動揺するそぶりも見せず、上告を勝手に取り下げ、無期懲役が確定しました。



 

2001年9月4日収監先の独居房で自殺

丘崎誠人は刑が確定したその日から、およそ1年後の2001年9月4日、自分のランニングシャツを独居房の窓枠にかけて首をつっているのを巡回中の刑務官が発見しました。

病院に運ばれましたが、意識不明の状態が続き、8日未明に死亡が確認されました。遺書はありませんでした。当時は就寝前の自由時間で巡回が15分に1回という状況の中での自殺でした。

自殺を図ったのは、丘崎誠人が、充代さんを殺害した月命日だったのです。これが彼の償いの方法だったのでしょうか、今となっては解明する術はありませんが、村社会の闇、差別に苦しみ引き起こされた、なんとも者悲しい、これが奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件の全貌です。

 

月ヶ瀬村の現在は

今だなお語り継がれる、月ヶ瀬村女子中学生殺人事件の舞台となった月ヶ瀬村の現在はどうなっているのかというと、現在は名前を変えて存在しています。
 

市町村合併により奈良市の一部に

1889年(明治22年)4月1日、町村制の施行に伴い、尾山村・長引村・桃香野村・月瀬村の区域をもって月瀬村が発足しました。

そして長く月日を経過し、1968年(昭和43年)月瀬村が改称して月ヶ瀬村となります。月ヶ瀬村女子中学生殺人事件がおきてから、8年後の2005年(平成17年)4月1日奈良市に編入し、同日月ヶ瀬村は廃村しました。現在は奈良県奈良市月ヶ瀬として存在しています。

 

村八分と差別による殺人を犯した悲しき鬼、丘崎誠人

丘崎誠人が独房で自殺をするという結末に至った月ヶ瀬村女子中学生殺人事件は、村八分や差別により恨みや怒りが引き金となっておこった、とても悲しい事件でした。

一人の人間の人格形成までを蝕んだ差別は村社会における闇の部分でもありました。丘崎誠人は独房で自殺に至るまで何を思い、どう被害者の充代さんに償ったのか、犯人が自殺した今は誰にも知られる事も無く語り告げられて行くのです。
 

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