校門圧死事件とは?神戸高塚高校の女子高生の圧死について解説!

校門圧死事件という事件をご存知でしょうか?校門圧死事件とは、神戸高塚高校で門扉とコンクリートの間に1年生の女子高生が挟まれたことにより、頭蓋骨粉砕骨折により死亡した事件です。校門圧死事件の概要やその後について詳しく見ていきましょう。

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目次

  1. 1校門圧死事件という悲惨な女子高生圧死事件の真相
  2. 2校門圧死事件とは?
  3. 3校門圧死事件の概要
  4. 4校門圧死事件のその後は?
  5. 5県立神戸高塚高校の驚くべき校則とは?
  6. 6校門圧死事件を風化させないようにしよう!

校門圧死事件という悲惨な女子高生圧死事件の真相

校門圧死事件という事件を聞いたことはありますか?校門圧死事件とは、神戸高塚高校において、登校時間に門扉とコンクリートに1年生の女子高生が挟まれたことによって、圧死してしまった事件です。女子高生の圧死という悲惨な事件の真相に迫ります。

この校門圧死事件の背景には、神戸高塚高校に厳しい校則があったと言われています。神戸高塚高校では、遅刻をしてしまうと、グラウンドを走らされるという制裁があったのです。そのため、遅刻しそうになった生徒たちが門扉に殺到してしまったのです。

門扉を教諭によって閉められそうになったことに焦った生徒たち30人が、門扉とコンクリートの隙間に殺到したと言われています。そして、不幸にも、1年生の女子高生が頭を挟まれてしまったのです。校門圧死事件によって教諭は懲戒免職となっています。

校門圧死事件とは?

まずは、校門圧死事件とはどんな事件だったのかについて見ていきましょう。校門圧死事件は、1990年(平成2年)7月6日、兵庫県神戸市西区にある神戸高塚高校で、遅刻しそうになって焦った女子高生が門扉とコンクリートに挟まれて圧死してしまった事件です。

神戸高塚高校では、遅刻を厳しく罰していました。生徒たちは、遅刻するとグラウンドを走らされることを知っていました。およそ30人ほどの生徒たちが、門扉が閉められそうになったのに焦り、門扉に殺到しましたところ、女子高生が頭を麻まれてしまったのです。

女子高生は病院に運ばれましたが、頭蓋骨粉砕骨折によって死亡してしまいました。高校の校門で圧死するという痛ましい事故が起きてしまったのです。この事件では、事件の舞台となった神戸高塚高校の厳しすぎる校則が大きな話題となりました。

校門圧死事件の概要

続いては、校門圧死事件の概要について詳しく見ていきましょう。事件が起きたのは、1990年7月6日のことでした。この日、登校時間の門限になったことで、遅刻を取り締まる目的で、校門付近に立っていた教諭が校門を閉め始めました。

遅刻をするとグラウンドを走らされることを知っていた生徒たちは、校門が閉められるのを知って、校門に殺到します。校門圧死事件当時は、30名ほどの生徒が門扉とコンクリートの隙間に殺到していたと言われています。

その際、不幸にも、門扉とコンクリートの隙間に、神戸高塚高校の1年生女子高生が挟まれてしまったのです。さらに悪いことに、隙間に挟まれたのは、女子高生の頭でした。頭を激しく挟まれた女子高生は、病院に運ばれますが、死亡してしまったのです。

登校時間の門限になり教諭が校門を閉め始める

1990年(平成2年)7月6日、午前8時過ぎ、3名の教諭が校門付近で遅刻指導をしていました。この遅刻指導をしていた教諭のうちの一人は、校門圧死事件が起きる直前に、時計を見ながら「4秒前」などとハンドマイクを使って叫んでいたそうです。

この日は、期末考査の日だったそうです。午前8時30分のチャイムが鳴ると同時に、教諭は、高さ1.5メートル、重さ約230キログラムの鉄製のスライド式の門扉を閉め始めました。このとき、教諭は、頭部を地面に向けて勢いよく門扉を閉めました。

登校中の生徒30名ほどが隙間に殺到

神戸高塚高校の生徒たちは、遅刻するとグラウンドを走らされるなどの制裁を受けさせられることを知っていました。そのため、教諭が門扉を閉め始めたことを知った生徒たちは焦って門扉に殺到しました。その数はおよそ30名ほどだったそうです。

門扉を勢いよく閉めた教諭は、過去に生徒がかばんを挟み押し戻されるなどの経験があったことから、生徒の列が一瞬途切れたすきに、かなりの勢いで門扉を閉めました。教諭は生徒がいないと判断していましたが、実際には女子生徒が挟まれてしまったのです。

門扉とコンクリートの間に1年生の女生徒が挟まれる

門扉を勢いよく閉めた教諭は、当初、門扉とコンクリートの隙間に1年生の女子生徒が挟まれてしまっていることに気づきませんでした。他の生徒が門扉を押し戻そうとしたり、叫んだりしたことから、教諭は事件に初めて気づいたと言われています。

女性生徒が門扉に挟まれていることに気づいた教諭は、すぐに保健の先生を呼ぶように言いました。そして、女子生徒が病院に運ばれると、何事もなかったかのように、予定通り試験監督を務めたのです。心配する生徒には、「生命に別条はない」と話していました。

病院に運ばれるが頭蓋骨粉砕骨折などで死亡

門扉とコンクリートの隙間に挟まれてしまった女子生徒は、すぐさま病院に運ばれますが、頭蓋骨粉砕骨折により死亡が確認されました。当日の試験は予定通り実施され、門扉を閉めた教諭も試験監督を務めていたと言われています。

学校側は事件現場の門扉をすばやく撤去しようと動きました。しかし、学校側が「事件の風化を図っている」と考えた保護者や一部の住民の激しい反発に遭い、門扉の撤去は一旦保留にします。結局、事件を起こした教諭は懲戒免職処分を受けました。

校門圧死事件のその後は?

続いては、校門圧死事件のその後について見ていきましょう。校門圧死事件で校門を勢いよく閉めた教諭は、懲戒免職処分になっています。校門圧死事件では、兵庫県が遺族に損害賠償金を支払ったことで、示談が成立しています。

神戸高塚高校は、事件直後に、門扉を撤去しようとしましたが、「事件の風化を図っている」などとして保護者や一部の住民が反発しました。「判決前の撤去は好ましくない」とする裁判所の意見を受けて保留していたものの、1993年7月30日に撤去が完了しました。

校門を閉めた教諭は懲戒免職

兵庫県教育委員会は、校門圧死事件で校門を閉めた教諭を懲戒免職処分にしました。また、管理責任を問い、当時の校長を戒告、教頭と教育長を訓告とする処分を行いました。しかし、校門を閉めようと言い出した教員に対する処分はありませんでした。

兵庫県が遺族に損害賠償金を支払って示談

校門圧死事件では、神戸高塚高校側が安全管理上の過失を認めたうえで、兵庫県が遺族に対して損害賠償金6000万円を支払ったことで示談が成立しました。事件の年の9月には、教育委員会から新校長が就任し、保護者会の開催を打ち切ると宣言しました。

事件現場の校門を撤去

神戸高塚高校は、事件が起きてすぐに事故現場となった校門を撤去しようとしました。しかしながら、学校側が「事件の風化を図っている」と考えた保護者や一部の住民が、門扉の撤去に激しく反発したことで撤去は延期されました。

さらに、裁判所からも「判決前の撤去は好ましくない」という意見が出されたことで、学校側は、すぐに撤去することはやめました。学校側は、教諭が有罪確定となると再び校門の撤去を推し進め、保護者らの反発がある中、1993年7月30日に撤去を実行に移しました。

「校門の時計だけが知っている」が出版

この校門圧死事件のおよそ3年後には、門扉を閉めた元教諭が執筆した本「校門の時計だけが知っている」が出版されました。この本では、校門圧死事件を起こした元教諭本人が自分の認識や意見、校門圧死事件当時の周囲の状況を告白しています。

県立神戸高塚高校の驚くべき校則とは?

続いては、校門圧死事件の事件現場となった省吾県立神戸高塚高校の驚くべき校則について見ていきましょう。校門圧死事件の背景には、神戸高塚高校の校則が関係していたと言われているのです。その校則とは、遅刻に関するものでした。

遅刻するとグラウンドを走らされる制裁

校門圧死事件の舞台となった神戸高塚高校には、遅刻をするとグラウンドを2周走らされるという制裁があったことが知られています。遅刻を出席簿や調査書に反映させるために、わざと罰を課して教室でのホームルームに間に合わせないようにしていたと言われています。

校門圧死事件を風化させないようにしよう!

校門圧死事件では、遅刻に対する厳しすぎる指導によって、生徒一人の命が奪われました。この校門圧死事件では、遅刻指導が行き過ぎであり、門扉を閉めて生徒を締め出すやり方はひどいと、世間でも大変大きな関心を集めました。

校門圧死事件後に、門扉を閉めた当事者である元教諭が本を出版しています。その本の中で、元教諭は、「警察的な校門指導を正義だと思っていた」と述べており、基本的には自分の行動に問題はなかったという立場を崩していません。

学校という一つの閉鎖空間で起きた校門圧死事件は、様々な教訓を後世に伝えてくれています。校門圧死事件では、学校の指導が行き過ぎているとして、世間でも大きな話題となったのです。同様の事件が起きないように、校門圧死事件を風化させないようにしましょう。

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