日航ジャンボ機墜落事故生存者のその後!生存者の落合由美•川上恵の現在とは?

日航機墜落事故をご存知ですか?日航機墜落事故では、日航ジャンボ機JAL123便が御巣鷹山に墜落したものの、その後、4人の方が生きていることが判明しました。生存者のその後や真相、日航機墜落事故の生存者である落合由美さん、川上慶子さんらの現在の様子をみていきます。

日航ジャンボ機墜落事故生存者のその後!生存者の落合由美•川上恵の現在とは?のイメージ

目次

  1. 1日航機墜落事故の生存者の現在!語られた真相
  2. 2日航機墜落事故の生存者は?
  3. 3日航機墜落事故の生存者である4人と現在
  4. 4日航機墜落事故の生存者が語った真相
  5. 5日航機墜落事故の生存者を襲う更なる不幸
  6. 6日航機墜落事故の生存者とその遺族のその後
  7. 7日航機墜落事故を風化させないようにしよう!

日航機墜落事故の生存者の現在!語られた真相

日航機墜落事故という悲惨な事故をご存知でしょうか?日航機墜落事故では、絶望的な事故状況だったにもかかわらず、奇跡的に4人の方が生存していました。日航機墜落事故の生存者の現在の様子や、日航機墜落事故後に語られた真相を見ていきましょう。

JAL123便が御巣鷹山に激突した日航機墜落事故では、ジャンボ機が無残に砕け散りました。事故の悲惨さから、生存者はいないのではないかと考えられていましたが、事故直後にはかなり多くの生存者がいたと言われています。

しかし、結局、日航機墜落事故を経て現在でも生きているのは、たったの4人です。墜落したジャンボ機JAL123便の内部にあった遺体は判別するだけでも難しかったと言われています。生存できた理由は、座席の場所が恵まれていたことだと考えられています。

日航機墜落事故の生存者は?

まずは、日航機墜落事故の生存者について詳しく見ていきましょう。墜落したジャンボ機JAL123便は、御巣鷹山に激突しました。ジャンボ機が御巣鷹山に激突するという言葉では表せないほど悲惨な状況で、奇跡的に4人の方が生きていたのです。

4名の生存者の名前は、落合由美さん、川上慶子さん、吉崎博子さん、吉崎美紀子さんです。そして、生存者はすべて女性だったのです。その後の事故検証の中で、生存者が生きていられた理由が、座席の場所と女性だったことにあるとされました。

ジャンボ機JAL123便が御巣鷹山に墜落したことで、乗員乗客合わせて520人の尊い命が奪われました。夕方のラッシュ時とお盆の帰省ラッシュが重なったことで、日航機墜落事故では、著名人を含む多くの犠牲者を出し、社会に衝撃を与えたのでした。

事故を起こす前の1978年6月2日、JAL123便は、機体後方部を滑走路にぶつけてしまうというしりもち事故を起こしています。事故の原因は修理ミスとされましたが、遺族らの中には、修理ミス以外の原因があるのではないかと考える人たちもいます。

御巣鷹山に墜落した日航機墜落事故とは?

日航機墜落事故が起きたのは、1985年(昭和60年)8月12日のことでした。東京・羽田発大阪・伊丹行のJAL123便は、羽田空港を18時に出発しました。ジャンボ機JAL123便は、その後、大阪の伊丹空港に18時56分に到着する予定でした。

離陸から12分後の18時24分、23900ftを通過したところで、緊急事態が発生しました。突然衝撃音が響き、ジャンボ機JAL123便の垂直尾翼が破壊されたのです。その後、補助動力装置が失われ油圧操縦ができなくなり、昇降舵や補助翼の操縦が不可能になったのです。

ジャンボ機JAL123便は制御を失い迷走しながら上昇と下降を繰り返しました。乗客の中には、最期を意識し、揺れ動く機内で家族に向けた遺書を書き残す者もいたようです。のちに、墜落事故現場から複数の遺書が発見され、事件の悲惨さを伝えています。

コックピットでは、懸命に機長らが墜落を回避しようとしていました。しかしながら、機長らの懸命な努力もむなしく、JAL123便は御巣鷹山に墜落してしまいます。機長は最後まで、「あたま上げろー、パワー」と指示し続けていました。

事故後の操作によって、日航機墜落事故の原因は、ボーイング社のJAL123便の機体修理ミスだという報告がなされました。しかしながら、遺族や航空関係者からは原因はほかにあるのではないかという声が上がっており、真相は謎に包まれています。

JAL123内の生存者は4人のみ

524名を乗せたジャンボ機JAL123便は、御巣鷹山に激突しました。ジャンボ機JAL123便の墜落から約20分後、米空軍のC-130輸送機が群馬・長野県境付近の御巣鷹山で火災を発見しました。しかし、その後、墜落現場の誤情報が出るなどし時間が過ぎていきました。

その後、8月13日午前4時過ぎ、航空自衛隊救難隊によって、墜落期待が発見されました。その後の午前11時頃、事故現場で発見された生存者4人が、長野県警機動隊、上野村消防団らによって相次いで発見されました。4人とも重傷を負っていましたが助かりました。

御巣鷹山の凄惨な事故現場では、懸命に生存者の捜索がなされましたが、4人以外の生存者を見つけることはできませんでした。524名が乗っていたジャンボ機JAL123便の墜落事故は、520人が死亡するという前代未聞の大惨事となったのでした。

この死亡者520人という数は、世界でも例をみないほどの大事故であったことを物語っています。この日航機墜落事故では、著名人も複数亡くなっています。歌手だった坂本九さんや女優の北原遥子さんをはじめとする芸能人や、有名企業の社長も含まれていました。

Thumb坂本九の突然の死!死因は日航機墜落事故?遺体は発見された?
昭和を代表する歌手であった坂本九さんの突然の死に誰もが驚かれたことでしょう。坂本九さんの死因...

ジャンボ機内の遺体は判別も難しい状態

日航機墜落事故の現場である御巣鷹山に到着した救助隊員たちは、事故の生存者を発見するのが絶望的になると、その後、周囲に散らばる遺体の運び出しの作業に移っていきました。ジャンボ機JAL123便の内部にあった遺体は、判別するのも難しい状況だったのです。

日航機墜落事故の現場である御巣鷹山を撮影した人の話では、事故現場ではどこにカメラを向けても遺体が映ってしまう状況だったそうです。事故の直後には失神していてまだ生存していた人がいたとする証言もあり、救助が遅れたことを残念がる声が上がっています。

日航機墜落事故の生存者である4人と現在

続いては、日航機墜落事故の生存者である4人と彼らの現在の様子について見ていきましょう。日航機墜落事故では、乗員乗客全員の生存が絶望視されていましたが、奇跡的に4人の方が生き残りました。御巣鷹山で見つかった生存者はすべて女性だったのです。

以下では、4人の生存者である、落合由美さん、川上慶子さん、吉崎博子さん、吉崎美紀子さんのそれぞれに注目していきましょう。生存者はいないだろうと言われた御巣鷹山で、生存者たちはどのように見つかり、その後現在までどのように過ごしてきたのでしょうか?

日航機墜落事故で奇跡的に助かった4人は、機体の最後尾の中央付近に座っていました。この座席位置が生存者たちに有利に働いたのだろうという指摘があります。また、生存者たちが座っていた場所では火災が起きなかったとも言われています。

生存者たちの証言によれば、日航機墜落事故直後は、乗客同士で励ましあっていたようです。互いに声を掛け合い、あきらめないで生き抜こうとしていたのです。しかしながら、時間が経過するにつれて、徐々に励ましあう声はなくなっていったようです。

日航機墜落事故の生存者①座席番号56C:落合由美

日航機墜落事故の生存者の一人、落合由美さんは、座席番号56Cに座っていました。落合由美さんは、日本航空のアシスタント・パーサーでした。このアシスタント・パーサーとは、パーサーを補佐するスチュワーデスの地位のことです。

落合由美さんは日航機墜落事故の日には、乗客としてジャンボ機JAL123便に乗っていました。落合由美さんは、「墜落の直後には「はあはあ」という荒い息遣いが聞こえました。一人ではなく何人もの息遣いです」と述べており、御巣鷹山には生存者が複数いたようです。

生存者の落合由美さんの現在

続いては、生存者の落合由美さんの現在について見ていきましょう。落合由美さんは、日航機墜落事故で生き残り、その後も日本航空事故関連の仕事を任されていました。落合由美さんは、その後、定年まで勤めあげ、現在では、日本航空を退社しています。

落合由美さんは、現在では、大阪市内で主婦として暮らしていると言われています。落合由美さんは、日航機墜落事故を経験した立場として、安全教育セミナーを開いているそうです。落合由美さんには、日航機墜落事故を風化させたくないという思いがあるのでしょう。

日航機墜落事故の生存者➁座席番号60D:川上慶子

続いては、日航機墜落事故の二人目の生存者である川上慶子さんについて見ていきましょう。川上慶子さんは、日航機墜落事故の際に、ジャンボ機JAL123便の座席番号60Dに座っていました。川上慶子さんは、北海道旅行の帰りに家族で搭乗していました。

家族で搭乗していた当時12歳だった川上慶子さんは、日航機墜落事故によって、家族を同時に失ってしまったのです。幼い川上慶子さんは、御巣鷹山の事故現場からヘリコプターで吊り上げられ救助されました。川上慶子さんのこの姿を、日本中が目にしたことでしょう。

生存者の川上慶子さんの現在

川上慶子さんは、日航機墜落事故で奇跡的に生き残りました。川上慶子さんは、その後、島根県で祖母と、ジャンボ機JAL123便に搭乗していなかった兄と3人で暮らしたそうです。川上慶子さんは、その後、アメリカに渡り、アメリカで国際結婚をしています。

兄によると、川上慶子さんには、3人の子供がいるそうです。川上慶子さんは、現在、看護師を辞めて、息子2人と幼い娘の子育てに奮闘しているそうです。川上慶子さんは、日航機墜落事故により家族を失うというショックを乗り越え、力強く人生を歩んでいます。

川上慶子さんは、1995年に発生した阪神淡路大震災の時に、けが人等の救護に当たるなど、大活躍をしたことでも知られています。日航機墜落事故後には、飛行機に乗ることがトラウマになっていましたが、トラウマは克服されたようです。

日航機墜落事故の生存者③座席番号54F:吉崎博子

続いては、日航機墜落事故の三人目の生存者である吉崎博子さんについて見ていきましょう。吉崎博子さんは、日航機墜落事故の当日、座席番号54Fに座っていました。吉崎博子さんは、日航機墜落事故当時、5人家族の母親でした。

日航機墜落事故によって家族を失い、娘の吉崎美紀子さんとともに救助されました。吉崎博子さんは、日航機墜落事故当時、34歳でした。事故によって家族を失いましたが、娘とともに救助されたことが不幸中の幸いだったと言えるでしょう。

生存者の吉崎博子さんの現在

日航機墜落事故の生存者の一人である吉崎博子さんは、今現在、東京都内の母方の実家で暮らしていると言われています。日航機墜落事故当時は、大変な重傷だった吉崎博子さんと娘の吉崎美紀子さんは、ともに一命を取り留め、ご健在のようです。

日航機墜落事故の生存者④座席番号54D:吉崎美紀子

最期にご紹介するのは、日航機墜落事故の四人目の生存者である吉崎美紀子さんです。吉崎美紀子さんは、すでに紹介した吉崎博子さんの娘さんで、日航機墜落事故当時、8歳でした。8歳という年齢は、日航機墜落事故の生存者の中で最も若いのです。

日航機墜落事故のとき、吉崎美紀子さんは、座席番号54Dに座っていました。日航機墜落事故では、母である吉崎博子さん同様、大変な重傷を負っており、猛暑の中体力を奪われ、一刻も早い救助が必要とされました。幸いにも、母子ともに救助されました。

生存者の吉崎美紀子さんの現在

続いては、生存者である吉崎美紀子さんの現在の様子について見ていきましょう。当時8歳だった吉崎美紀子さんは、骨折など大きなけがをしており、大変苦労したはずです。現在は、母親である吉崎博子さんとともに、東京都内で暮らしているそうです。

発見時はきれいな見た目だった吉崎博子さん

実は、日航機墜落事故の生存者の一人である吉崎博子さんは、発見時にきれいな見た目だったことが知られています。外見上は一見全くけがをしていないように見えたのでした。判別もできない遺体が多い中、きれいな見た目だった吉崎博子さんは例外的な存在だったのです。

血だらけだった落合由美さん

一方、日航機墜落事故の生存者の落合由美さんは、発見時に血だらけだったと言われています。救助隊に発見されたときの落合由美さんは、全身が血だらけで、声も出せない状態だったそうです。それでもかすかに体を動かし、生きていることを訴えたのです。

日航機墜落事故の生存者が語った真相

日航機墜落事故の生存者と現在の様子について見てきましたが、続いては、日航機墜落事故の生存者たちが語った日航機墜落事故の真相について見ていきましょう。日航機墜落事故の生存者たちは、救助後に、事故の真相を語っているのです。

日航機墜落事故が起きた当初は、生存者が7人と報じられました。日航機墜落事故の生存者たちが語る真相は、日航機墜落事故が起きた直後には、まだ多くの人が生きていた、というものです。しかし、救助が遅れたことで、生存者は減っていったようです。

生存者たちは、日航機墜落事故の真相を語る中で、日航機墜落事故直後に、男の子が確実に生きていたと述べています。生存者たちがすべて女性だったことで、女性であることが生き残れた理由の一つであるとする説が取り上げられたこともあります。

当初生存者は7人と報じられた

日航機墜落事故を受けて、日本経済新聞の夕刊の1面トップの見出しには、「日航機墜落事故の生存者7人発見」と書かれていました。また、ほかの新聞でも生存者が8名いるとの情報も載っていました。当時は情報が錯綜しており、真相をつかむのが難しかったのです。

墜落時は多くの人が生きていた

日航機墜落事故の生存者は口をそろえて、日航機墜落事故直後には、まだ多くの人が生きていたと述べています。日航機墜落事故の真相を知るのは、その現場にいた生存者たちなのです。救助が遅れたせいで、救えるはずの命が救えなかったのでしょう。

日航機墜落事故で生き残った落合由美さんは、事故直後に、男の子の声を聴いたと述べています。しかも、男の子だけでなく、多くの人の息遣いを聞いたとも述べています。こうしたことから、もっと早い救助があれば生存者はもっと増えていたと言えそうです。

座席の場所と女性であることが生存理由説

524名もの乗員乗客を乗せた巨大ジャンボ機が御巣鷹山に墜落した日航機墜落事故では、奇跡的に4人が助かっています。なぜこの4人が助かったのかについては、座席の場所が関係しているのではないかという説が有力だと言われています。

日航機墜落事故の生存者4人は、JAL123便の機体後部の座席に座っていました。JAL123便の機体後部は御巣鷹山の尾根に衝突することなく、木々などにぶつかりながらスピードを落としていったようです。そのため、機体への衝撃が少なかったのだろうと言われています。

日航機墜落事故の生存者4人が、機内最後尾の中央付近に座っていたことが生存できた真相だと考えられています。生存者たちは、ほかの乗客たちが日航機墜落事故の衝撃をクッションのように吸収してくれたおかげで、助かったのではないかと考えられています。

また、女性であることが生き残れた理由の一つであるという説もあります。生存者全員が女性だったことから、女性のほうが絶望的な災害時には生き残りやすいと言われたのです。ただ、座席の場所が生存理由とする説のほうが説得力があるという声もあります。

まだ生存していた時の男の子たちの声

日航機墜落事故の生存者たちは、日航機墜落事故の真相を語っています。生存者の中には、日航機墜落事故直後には、まだ男の子が生きていたと述べています。生存者の落合由美さんは、墜落直後に「おかあさーん」と叫ぶ男の子の声を聴いたと真相を語っています。

落合由美さんは、さらに時間がたった後で、「ようし、ぼくはがんばるぞ」という男の子の声も聴いています。この声の主が、先ほど「おかあさーん」と叫んだ男の子と同一人物かどうかはわからなかったそうですが、声自体ははっきり聞こえたと述べています。

日航機墜落事故の生存者を襲う更なる不幸

日航機墜落事故の生存者が語った真相について見てきましたが、続いては、日航機墜落事故の生存者を襲う更なる不幸について見ていきましょう。実は、未曽有の大事故で生き残った生存者たちは、いたずら電話やPTSD、ストーカーなどに悩まされていたのです。

生き残るのが不可能と言われた事故現場から4人の方が生還しました。生還した生存者たちは、安全であるはずの事故後にも、様々なことに悩まされ、苦しめられたのです。日航機墜落事故によって生き残った自分を責めてしまう人もいたと言われています。

遺族や生存者にいたずら電話

日航機墜落事故の後に、日航機墜落事故の遺族や生存者の家には、いたずら電話がかかってきたと言われています。ジャンボ機を操縦していた機長の家には、「多くの人の命を奪っておいて、よく生きていられるな」という電話がかかってきたそうです。

機長の家族も、家族を亡くした被害者なのです。一家の大黒柱を亡くし、つらい状況の中で、心無い言葉を浴びせられて非常に苦しい思いをしたことでしょう。しかし、そんな電話に対しても、家族は丁寧に対応していったそうです。

事故後のPTSD

また、日航機墜落事故の生存者たちは、事故後のPTSDにも悩まされています。日常生活の中で、事故のことを突然思い出したり、生活に支障が出るほどの苦しみを感じたりしているのです。日航機墜落事故のことについて話せば、症状が出てしまうと言われています。

生存者の中には飛行機に乗ることができなくなった人もいたそうですが、中には飛行機に乗って海外へ向かった人もいます。。事故当時12歳だった川上慶子さんは、事故後にアメリカへは飛行機で向かい、アメリカで出会った人と国際結婚をしています。

生存者につきまとうストーカー

さらに日航機墜落事故の生存者たちを苦しめたのは、生存者に付きまとうストーカーという存在でした。事故後に、事故の真相を知りたいという好奇心からストーカー行為をしたり、迷惑電話をかけ続けたりする人が続出したのです。

日航機墜落事故の生存者とその遺族のその後

日航機墜落事故の生存者たちを襲う更なる不幸について見てきましたが、続いては、日航機墜落事故の生存者とその遺族のその後について見ていきましょう。事故で生き残った川上さんは、阪神淡路大震災で尽力したことで知られています。

また、日航機墜落事故のときにジャンボ機を操縦していた高濱機長の娘は、父と同じ日本航空に入社して、客室乗務員として働いていると言われています。さらには、日航機墜落事故を受けて、遺族の会である「8.12連絡会」も立ち上げられています。

生存者の川上さんは阪神淡路大震災で尽力

日航機墜落事故で生き残った川上さんは、阪神淡路大震災では、被災者の救護にあたっていたと言われています。震災直後から、けが人の救護に奔走した川上さんは、かつて自らがされた救助をほかの人にしてあげたいと思ったのかもしれません。

機長の娘・高濱さんもJALに入社

日航機墜落事故のときに、ジャンボ機JAL123便を操縦していた機長の娘である高濱洋子さんもまた、父と同じJALに入社しています。日航機墜落事故当時、高校3年生だった高濱洋子さんは、日本航空の客室乗務員として働いているのです。

9歳の息子を亡くした遺族「8.12連絡会」

また、日航機墜落事故で9歳の息子を亡くした遺族が、遺族の会である「8.12連絡会」を発足させています。この連絡会の事務局長を33年間務めた美谷島邦子さんは、日航機墜落事故で、野球が大好きだった9歳の息子の健くんを亡くしました。

日航機墜落事故を風化させないようにしよう!

520人もの人が命を奪われた日航機墜落事故は、多くの日本人の心の中に記憶されていることでしょう。未曽有の大事故によって、奇跡的に生き残った生存者たちは、事故後にも、いたずら電話やPTSD、ストーカーなどに悩まされてきました。

日航機墜落事故では、救助がもっと早くできたのではないかと言われてきました。実際、生存者の話では、事故直後にはまだたくさんの生存者がいたと思われます。このような悲惨な事故を繰り返さないためにも、日航機墜落事故を決して風化させないようにしましょう。

関連するまとめ

人気の記事

人気のあるまとめランキング

新着一覧

最近公開されたまとめ