松本知子(麻原彰晃の妻)の現在は?オウム真理教や子供!画像はある?

夫・麻原彰晃(松本智津夫)の死刑が執行された後、妻・松本知子やその子供たちは現在何をしているのでしょうか?四女がネットカフェ難民となり苦悩する中、松本知子と数名の子供たちはいまだオウム真理教との関係が断ち切れていませんでした。

松本知子(麻原彰晃の妻)の現在は?オウム真理教や子供!画像はある?のイメージ

目次

  1. 1麻原彰晃の妻でオウム真理教の元最高幹部「松本知子」の現在を追跡!
  2. 2松本知子とは?
  3. 3麻原彰晃(松本智津夫)の妻「松本知子」の生い立ち
  4. 4オウム真理教教祖「麻原彰晃(松本智津夫)」について
  5. 5死刑執行後の麻原彰晃の遺体を巡る騒動!?
  6. 6松本知子や家族の現在
  7. 7麻原彰晃・オウム真理教が関わったとされる事件の一部
  8. 8決して忘れてはいけない事件

麻原彰晃の妻でオウム真理教の元最高幹部「松本知子」の現在を追跡!

一夜にして日本中を震撼させた地下鉄サリン事件を起こした麻原彰晃(松本智津夫)の妻であり、オウム真理教の元最高幹部だった松本知子は現在何をしているのでしょうか?

夫・麻原彰晃(松本智津夫)の死刑が執行された後、遺体を引き取りたいと申し出たその真意とは?彼女は現在どんな生活をしているのでしょうか?

松本知子とは?

妻・松本知子は千葉県木更津市出身、1958年8月17日生まれ、現在60歳です。かつてはオウム真理教の元最高幹部だけでなく、出版事業を行っていた株式会社オウムの社長としてその名を轟かせていました。

妻・松本知子のホーリーネームはマハーマーヤ、後にヤソーダラーに変更しています。この頃の画像はインターネット上に多く出回っています。

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麻原彰晃(松本智津夫)の妻「松本知子」の生い立ち

妻・松本知子は、千葉県木更津高等学校を卒業後、大学を目指しますが浪人、代々木ゼミナール代々木本校に通っていた時代がありました。妻・松本知子が麻原彰晃(松本智津夫)と初めて出会ったのはこの時。なんとふたりは予備校時代に隣の席だったということが分かっています。

麻原彰晃(松本智津夫)は元々髪が長い女性が好きだと言われていますが、予備校に通っていた当時の妻・松本知子は髪が長かったそうです。

松本知子の経歴

予備校時代に知り合った松本知子と麻原彰晃(松本智津夫)は、しばらく交際を続け、そのまま結婚します。しばらくは千葉県船橋市に住所を構え、その間、松本知子は3人の娘をもうけました。生活は大変貧しく、5人家族は当時たった1つの寝室で寝ていたんだそうです。この頃の麻原彰晃(松本智津夫)の画像を確認しましたが、割と普通の男性だったことに驚かされました。

子供たちがまだ幼かった時の松本知子は、蚊を殺した子供に対して「蚊も生きているんだよ。生まれ変わったら私たちも蚊になるかもしれないんだよ。」と話していたそうですが、一方で松本知子は普段から平気で蚊を殺していたそうです。蛇が大変苦手な松本智子は、麻原彰晃(松本智津夫)から蛇を見せられて気絶したことがありました。

麻原彰晃と結婚し6人の子供を産む

妻・松本知子はオウム真理教時代も出産し続け、夫である麻原彰晃(松本智津夫)との間に男の子を2人、そして女の子を4人、合計6人の子供を産みました。

松本知子は残忍な団体・オウム真理教取り仕切る夫・麻原彰晃(松本智津夫)の悪事を知りながらも、妻として献身的にサポートしていました。妻・松本知子がオウム真理教に入信したのは1987年9月のことでした。

それまで夫の麻原彰晃(松本智津夫)は千葉県で薬局を営んでいましたが、突如宗教家として静岡県富士宮市へ移住します。

子供たちの画像

子供たちの内、はっきりと画像が出回っているのは三女だけです。他の子供たちについての画像は、長女と思われる画像、四女が後ろ姿の画像、誰だか特定できないものの子供の画像などが公開されていました。息子の画像に関しては、後ろ姿の画像、横顔の画像なども一切公開されていません。

しかし、画像が公開されている三女や、長女と思われる画像などから推測するに、息子たちの顔立ち・画像は相当麻原彰晃(松本智津夫)もしくは松本知子の画像に似ているのではないかと思われます。

20代で神経症に罹る

松本知子は自身が出版した本の中で、次のような症状を発症したことを告白しています。松本知子が20代だった時、彼女の身に、許容量をはるかに超える精神的葛藤が起こり、その後、精神の異常が現れ始め、結果、精神症に陥りました。

具体的には対人恐怖症や外出恐怖症が発症し、やがて強迫神経症も酷くなっていったそうです。強迫神経症は強迫性障害とも呼ばれる病気で、理屈に合っていないことを自分の意に反して反復してしまう精神障害の一種です。

自分が望んでいないのに、同じ行為を繰り返し行なってしまったり、常に誰かから脅迫されているような気持ちになり、自分の意志に反していても、やらなければ、やらなければと同じ行為を繰り返してしまう病気です。

松本知子がこれらの病気を発症した原因について、三女は、1982年に麻原彰晃が薬事法違反で逮捕されたことや、彼が宗教にのめり込むようになり、家に戻らなくなってしまったことが関係していると発言しています。

1990年の衆議院議員総選挙に出馬するも落選


病気が発症している中、松本知子は1990年の第39回衆議院議員総選挙に真理党候補として東京1区から出馬しました。結果は落選。当時は東京1区の街中にオウム真理教の画像が貼られました。

松本知子は家庭では精神不安定が目立ち、愛想を振りまいた日に限って、家庭では些細なことで怒りを爆発させていたんだそうです。

薬剤師リンチ殺人事件で逮捕・起訴される

1994年に起きた薬剤師リンチ殺人事件に加担したとして、松本知子は1995年に逮捕・起訴されました。裁判では松本知子が麻原彰晃を止めることができたかどうか、という点で争われましたが、当時麻原彰晃が約100人の愛人を囲っており、松本知子には会話するチャンスさえ与えられていなかった為、事件に関与することは不可能ではないかと言われています。

懲役6年の実刑判決・2002年に出所

しかし検察側は、麻原彰晃は恐妻家だった、つまり妻・松本知子は夫を止めるだけの権力を持っていたと主張し、第1審では懲役7年の判決を受け、1999年9月9日に控訴審、2001年6月26日に上告審が行われ、遺族への謝罪と賠償を理由に懲役6年に減刑されています。

結果、松本知子は和歌山刑務所にて6年間服役し、2002年10月15日に出所しています。出所後の松本知子の画像はほとんど公開されていません。

アーレフ信者からの資金援助が発覚

6年間の刑期を経た松本知子は出所後、オウム真理教には戻らず、2006年頃までは教団と関わりを持っていないのではないかと思われていましたが、2006年7月20日、アーレフ信者の事件の件で家宅捜索を受けるニュースが報道され、松本知子とその子供・三女はアーレフ信者からの資金援助を受けていたことが明らかになりました。

この頃、四女は、教団のみならず、母である松本知子や姉妹と完全に縁を断ち切るため、オウム真理教事件と闘っていた江川紹子に対し「未成年後見人になってほしい」と依頼し世間を驚かせました。江川はこれを承諾しています。

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オウム真理教教祖「麻原彰晃(松本智津夫)」について

松本知子の夫である麻原彰晃は、本名・松本智津夫、1955年3月2日生まれ、松本知子より3歳年上の男でした。麻原彰晃こと松本智津夫は熊本出身で一時は宗教家でありましたが、最終的にはテロリストと呼ばれるようになります。

麻原彰晃/松本智津夫の画像は、若い頃の画像から逮捕される頃の画像まで、インターネット上に多く出回っているため、すぐに見つけることができます。

麻原彰晃(松本智津夫)の経歴

麻原彰晃こと松本智津夫は熊本県八千代市の畳職人の4男として、この世に誕生しました。兄弟は男6人女3人、全部で9人いるうちの7番目だったそうです。彼は先天性緑内障を持ってこの世に誕生し、生まれた時から左目がほとんど見えておらず、右目の視力は1.0程度でした。

年上の長男は全盲、そして5男は弱視だったそうです。兄弟の目の病気に関して、麻原彰晃らは水俣病が影響しているのではないかと推測しており、これが原因で視覚障害を起こすサリンを使ったのではないかと、地下鉄サリンが起きた事件後に、長男がインタビューを受けコメントを残しています。

1995年5月に逮捕

麻原彰晃が40歳になった1995年の3月18日、オウム真理教のメンバーだった村井秀夫・井上嘉浩らと会議を開き、地下鉄にサリンを撒くという案について決定を下します。そのたった二日後に地下鉄サリン事件は起きました。

麻原彰晃は自分が主犯であることを隠すために、自分が使っていた専用車を移動させるなどして、偽装工作を行いましたが、1995年5月16日に山梨県にあった一色村のオウム真理教教団施設、第六サティアンで逮捕されました。

捜査本部が第六サティアンに到着した時、麻原彰晃は1階と2階の間の部屋に隠れていると情報があったそうですが、実際は別の部屋で潜伏、現金960万円の札束と寝袋を抱えながら隠れていたところを発見されました。

2006年9月に死刑確定

麻原彰晃は死刑判決を恐れたのか、1995年10月26に設定されていた初公判の前日、10月25日、私選弁護人だった横山昭二を解任しました。彼の思惑どおり、初公判は延期を余儀なくされ、後に国選弁護人として選ばれた弁護士たちも次々と解任されていきました。

国から選ばれ麻原彰晃の弁護を引き受けた弁護士たちに対しては「なぜ麻原を弁護するのか」と世間からのバッシングが続きました。

公判の最初の頃の麻原彰晃は、時々、理解が難しい宗教的な話をすることはあったものの、全体としてはまともな受け答えを行っていたそうです。しかし罪状認否に関して保留から一転、起訴された17件の事件の内、16件は無罪だったと主張した後は、態度が一変、地下鉄サリン事件などの事件は弟子が勝手にやったことだと話し始めます。

結局裁判は長引き、最終的に判決が出たのは11年後の2006年9月15日、最後の最後まで求刑を受け入れなかった麻原彰晃に死刑判決が確定しました。

2018年7月に死刑執行

1995年に地下鉄オウムサリン事件を起こした麻原彰晃は11年後の2006年に死刑が確定、それから12年後の2018年に死刑が執行されます。

上川陽子法務大臣は2018年7月3日、麻原彰晃・土谷正実・遠藤誠一(3人は東京拘置所在監)、井上嘉浩・新実智光(2人は大阪拘置所在監)、中川智正(広島拘置所在監)、早川紀代秀(福岡拘置所在監)の各死刑囚7人に対して死刑執行命令書への押印を行いました。

死刑が執行された3日後の7月6日、麻原彰晃は朝食を全て食べた後、午前7時40分頃に死刑を告げられたそうです。この時刑務官から「遺体の引き取りは誰がいいのか?」と質問され、麻原彰晃は「ちょっと待って」「四女」「グフッ」と発声したことが分かっています。死刑執行を言い渡された時、彼は暴れたり抵抗したりしなかったそうです。63歳没。

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死刑執行後の麻原彰晃の遺体を巡る騒動!?

麻原彰晃の死刑が執行された後、彼の遺体を巡り騒動が勃発します。下手な場所に麻原彰晃の遺骨が埋葬されてしまえば、そこが聖地として崇められ、新たな問題が起きるのではないか、などと取り沙汰され、松本知子やその子供たちに対しては、命が狙われるのではないかなどとニュースになりました。

麻原彰晃は自分の遺体引取先を四女と指定

すでにオウムの宗教団体や松本知子らと縁を切っていた四女でしたが、なぜか麻原彰晃は遺体の引き取り先にこの四女を指定しました。なぜ麻原彰晃は四女を選んだのか?

麻原彰晃は自分を裏切った四女に対して恨みを持っていたのでしょうか?それとも唯一まともな精神を持ち合わせているかもしれない四女に最後の望みを託したのでしょうか?

結局、四女はこの申し出を受け入れ、彼女の代理人である滝本太郎弁護士は2018年7月7日に麻原彰晃の遺体と対面したことを認めています。遺骨は埋葬せず海上に散骨する予定であることをコメントしました。

四女は両親と縁を切っていた

麻原彰晃から遺骨の受取人に指名された四女は、小学生時代、茨城県に住んでいましたが、父の影響で小学校から入学を拒否されてしまったため、しばらく学校に通うことができませんでした。しかし協力者のおかげで、なんとか小学校に通うことができるようになりますが、結局、学校ではいじめに合うようになります。

その後は中学に進学しますが、通っていた中学の校長からは「あなたの父親がしたことを考えればあなたは死んでも仕方がない人間だ」とコメントされます。

少しずつ、両親や兄弟姉妹に対して不信感を抱き始めた四女は、2006年、オウム真理教を相手に死をも恐れず闘っていた江川紹子を頼り、身元後見人を依頼、彼女はこの時両親・姉妹兄弟と完全に縁を切っていました。

江川紹子に引き取ってもらった四女は、その後、何度も自殺未遂を繰り返し、現在もネットカフェ難民やホームレスのような生活をしながら冤罪の道を模索していると言われています。

長女と四女以外の4人が連名で要求書を提出

麻原彰晃から依頼され、遺骨の引き取りを始めようとしていた四女でしたが、母である松本知子と三女が遺体の引き渡しを求める要求書を提出します。この申し入れが許可されたのか、2018年7月9日、麻原彰晃は府中市の斎場で火葬され、当面は東京拘置所で安置されることが決定しました。現在も麻原彰晃の遺骨は東京拘置所に安置されています。

四女が遺体引き渡しを受け入れる

松本知子の四女は2010年「なぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか」という本を出版しました。

2014年マスコミからのインタビューを受けた彼女は、現在も自殺未遂が続いていることを明かし「私は死にたいというよりも死ななくてはいけない人間です。」「オウム真理教が引き起こしたサリン事件について知ってからは、幸せを感じるたびに犠牲者の喜びを奪ってしまったと感じています。」と語っています。

そして、四女は血を分けた姉妹についても牙をむいています。母・松本知子とは現在も最も密接な存在であるとされる三女について「彼女はでたらめなことを言っている」「三女は被害者に対して謝罪していない」とコメントしています。

母や姉妹の内の何人かは、現在も宗教などに洗脳されている可能性が考えられる為、四女は最終的に麻原彰晃の遺体引き渡しを受け入れました。

松本知子や家族の現在

2018年7月に麻原彰晃の死刑が執行され、はや半年が経過しました。現在、松本知子や兄弟姉妹らは一体何をして暮らしているのでしょうか?現在もまだ洗脳され続けているのでしょうか?

松本知子から松本明香里(まつもとあかり)に改名

松本知子は薬剤師リンチ殺人事件で刑務所に入った後、出所してから松本明香里(まつもとあかり)という名前に改名していることが分かっています。なぜ改名したのかは不明なまま、たとえ名前を変えたとしても彼女が松本知子であったことはすぐにバレてしまいました。

彼女は上祐史浩がリーダーとなる宗教団体アーレフと繋がりがあるのではないか言われていましたが、結果、松本知子が書いたとされる絵画の使用料としてアーレフは継続的に資金提供していたことが報じられました。つまり、松本知子は宗教団体アーレフから資金援助を受けることで生計を立てていたのです。

現在は関東地方で次女や三女と暮らしている!?

松本知子は現在、次女や三女などの子供とともに、関東地方で暮らしていると噂されています。身元が判明すれば襲われる可能性があるためか、現在も居所は明かされていません。

アーレフからの資金援助の金額は、月40万円程度ではないかと言われています。子供は兄妹姉妹合わせて6人、現在は四女が抜けているので、子供・兄妹姉妹は5人になっているとしても、母親を含めると合計6人が月額40万円で暮らしているということになります。おそらく松本知子・子供らの生活は厳しいものなのではないかと思われます。

子供たちは父親のことで苦労した!?

男女合わせて合計6人いると言われている松本知子の子供達ですが、通っていた学校が具体的に分かっている子供は三女と次男でした。

三女は父親の影響で小学校及び中学校には、満足に通うことができませんでした。高校は日の出高等学校の通信科を卒業したそうです。その後、和光大学に合格するも、大学側から入学拒否されてしまい提訴し勝訴。

結局彼女は文教大学の人間科学部臨床心理学科に入学し心理学を専攻しています。大学を卒業し就職しようとした三女でしたが、父親のことが分かると即クビになるということが続き、結局は父に関することをメディアにコメントするなど、マスコミ関連で生計を立てているそうです。

次男は春日部共栄中学校に合格しますがこちらも入学拒否にあい、提訴していることが分かっています。しかしその後どうなったのかいまだ消息は掴めていません。

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麻原彰晃・オウム真理教が関わったとされる事件の一部

麻原彰晃、そして松本知子が関わったとされるオウム真理教の事件は本当にたくさん起きました。彼らが起こした事件についてここでまとめてご紹介します。

1989年2月「オウム真理教男性信者殺害事件」

オウム真理教男性信者殺人事件は1989年2月10日に起きた事件です。被害者となった男性信者は、出家した後、村井秀夫が責任者を務めていたグループに所属し、その後岡崎一明のグループに移動しました。

この頃、男性は岡崎一明のやり方や、出家した信者の何人かが次々に死んでいることなどに疑問を持ち始め、出家を取り止めたいとオウム真理教からの脱会を申し出ていました。

これを聞いた麻原彰晃はこの男性を富士山の独房に監禁。足を縛らせた上、脱会を改心するように試みましたが、男性の気持ちが変わらないことが分かると殺害することを決意します。

当初はロープで首を絞めて窒息死させる手筈だったそうですが、男性が抵抗したため、信者の1人が首の骨を折り殺害に至りました。

1989年11月「坂本弁護士一家殺人事件」

同じく1989年11月、オウム真理教の問題に取り組んでいた坂本堤弁護士とそのご家族が殺されました。横浜法律事務所に所属していた坂本弁護士は江川紹子からの紹介で、ある信者の母親から「息子がオウム真理教に出家してしまったのでなんとか助けてほしい」助けを求められます。

彼はオウム真理教の反社会性を批判しながら「オウム真理教被害者の会」のリーダーとしてテロリストと闘っていました。その頃マスコミからの取材を快く受けていた坂本弁護士の顔と名前は、テレビの中で簡単に知ることができた、これがきっかけになってしまったのか。

坂本弁護士とそのご家族は、麻原彰晃からの命令により、殺害されました。当初は塩化カリウムを注射することで殺害する予定だったそうですが、教団のメンバーが寝ている坂本一家を襲ったところ、激しく抵抗されたため、実行できず、結局は坂本弁護士、妻、子供の3人とも窒息させて殺害しました。

坂本弁護士の奥様は「子供だけは」と命乞いしたそうですが、たった一歳の長男は首を絞められて殺されたのです。

1994年1月「薬剤師リンチ殺人事件」

坂本一家が殺された5年後、1994年1月、今度は薬剤師リンチ殺人事件が起きます。息子を持つある母親がオウム真理教に出家してしまったため、息子と薬剤師がオウム真理教の信者を装い、母親を救出しようと試みました。

しかし麻原彰晃に発見され、息子は薬剤師を殺すなら許してやると言われ、息子によって薬剤師が殺された事件です。この事件は麻原彰晃が起訴された殺人事件の中で、唯一彼が殺人現場に立ち会った事件として認められています。

1994年6月「松本サリン事件」

松本サリン事件は1994年6月27日に長野県松本市で発生したテロ事件です。6月27日から翌日の6月28日の早朝にかけて、オウム真理教は松本市の住宅街に、化学兵器として使用される神経ガスのサリンを散布しました。これにより8人が死亡、約600人が負傷しています。

事件後しばらくの間、何が起きたのか特定できず「松本毒ガス事件」などと報じられていました。事件の第一通報者であった河野義行さんは家宅捜索されるなど、しばらくの間犯人扱いされてしまいます。

しかし、事件がサリンによるものであると判明した後は、松本サリン事件に対する一考察という怪文書が出回るなど、犯人はオウム真理教であると示唆した内容がニュースで取り沙汰されるようになります。

翌年オウム真理教に強制捜査が入り土谷正実がサリンを製造したと供述。幹部らは松本サリン事件を実行したと自供しました。

1995年3月「地下鉄サリン事件」

1994年6月に松本サリン事件が起きた、1年後の1995年3月、東京で同時多発テロ事件が発生しました。海外ではこの日のことを「TOKYO ATTACK」などと呼んでいます。

オウム真理教は、1995年3月20日午前8時頃、現在の東京メトロ、丸ノ内線、日比谷線、千代田線などなどが行き交う地下鉄の駅の車内で、サリンを散布し、乗客や駅員ら13人が死亡、負傷者は約6300人にまで及びました。

事件当日は平日の朝のラッシュアワーのピークだったため、かなりの人数が地下鉄の中に乗車していました。実行犯らは、乗車付近にサリンの入った袋を置き、先端の尖った傘などを使い袋を数回ついてサリンを散布したと供述しています。

この事件の首謀者は麻原彰晃でした。東京地方裁判所は麻原彰晃を始め、逮捕後に積極的に自供し、オウム真理教の元メンバー7人を死刑囚にすることに協力した林郁夫以外の散布実行犯全員と、送迎役だった新実智光に死刑が言い渡されました。この時、死刑が言い渡された全員に既に死刑が執行されています。

決して忘れてはいけない事件

松本知子らが1990年、衆議院選挙に立候補したあたりからオウム真理教と言う恐ろしい宗教団体の存在が世間で取り沙汰されるようになっていきました。松本サリン事件や地下鉄サリン事件が起きたのは松本知子が立候補した5年後です。

彼らをもっと早く逮捕できていれば、助かった命がいくつあっただろうかと思うだけで、悔し涙が流れます。オウム真理教の教祖であった麻原彰晃がなぜ誕生してしまったのか、そしてなぜ妻は最後まで逃げ出さなかったのか。

できるだけ多くの国民が事件の真相を理解し、今後彼らのような人間を二度と誕生させないように、これらの事件は決して忘れてはいけない事件なのです。

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