栃木実父殺し事件とは?実の父親を殺した娘のその後とは?

実の父親に11回も妊娠させられた娘が、鬼畜な父親を殺害するに至った「栃木実父殺し事件」。栃木県矢板市で起きたこの事件は、史上初めて尊属殺人違憲判決が出た事件として知られています。この記事では、「栃木実父殺し事件」の全容や、その後についてまとめます。

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目次

  1. 1栃木実父殺し事件とは?事件のその後まで!
  2. 2栃木実父殺し事件(栃木県矢板実父殺人事件)とは?
  3. 3栃木実父殺し事件の背景と概要
  4. 4栃木実父殺し事件の判決
  5. 5栃木実父殺し事件を担当した弁護士は?
  6. 6栃木実父殺し事件のその後は?
  7. 7法の歴史に残る「栃木実父殺し事件」
  8. 8栃木実父殺し事件に関連する記事はこちら

栃木実父殺し事件とは?事件のその後まで!

今から50年ほど前の1968年に栃木県矢板市で起きた「栃木実父殺し事件」(栃木県矢板実父殺人事件)は、父親からの長年に渡る性的虐待の末に、娘が父親を絞殺した事件であり、尊属殺人罪(そんぞくさつじんざい)が違憲であるかどうかが裁判の争点となりました。

尊属殺人罪が刑法から削除されるに至ったきっかけでもある「栃木実父殺し事件」の詳細や、その後についてご紹介します。

栃木実父殺し事件(栃木県矢板実父殺人事件)とは?

「栃木実父殺し事件」(栃木県矢板実父殺人事件)を語る上でのキーワードとして、尊属殺人罪があります。まずは、「栃木実父殺し事件」と尊属殺人罪との関係についてみていきましょう。

子供が実の親を殺した尊属殺人

栃木実父殺し事件とは、1968年(昭和43年)10月5日に栃木県矢板市において発生した、長期に渡る性的虐待の末に娘が父親を殺害した尊属殺人事件です。

尊属殺人とは、自身や配偶者の祖父母、両親、叔父、叔母等の血族(身内)を殺害することを言い、かつての日本では1908年制定の明治刑法において、通常の殺人罪と尊属殺人罪が区別されていました。

具体的には、殺人罪は刑法第199条で「死刑または無期懲役、もしくは3年以上(現在では5年以上になっている。)」、尊属殺人罪は刑法第200条にて「死刑または無期懲役」と定められており、尊属殺人罪の方が罪が重くなっていました。なお、こちらの尊属殺人罪は、1995年(平成7年)の改正刑法では正式に削除されています。

栃木実父殺し事件の別称

栃木実父殺し事件(栃木県矢板実父殺人事件)は、別名「尊属殺法定刑違憲事件」や、「尊属殺重罰規定違憲事件」とも呼ばれています。これは、上述した尊属殺人罪がこの事件によって史上初めて「違憲」であるとされたためです。

「尊属殺人罪は日本国憲法14条の平等原則に違反しているのではないか」つまり、「身内の殺人と通常の殺人を区別するのは不平等ではないか」という議論が以前よりありましたが、1950(昭和25)年に最高裁判所はこの問いに対して、「合憲」(=不平等ではない)との判決を出しました。

しかし、こちらの栃木実父殺し事件は、父親に長期に渡って性的虐待を受け11回も妊娠させられた上での殺害という背景があり、単純に「父親を殺したので尊属殺人罪で無期懲役か死刑の二択しかない」というのはあまりにもひどく、救いがありません。

このような経緯もあって、栃木実父殺し事件は最高裁判所で違憲判決となり、弁護側の勝利となりました。

栃木実父殺し事件の背景と概要

1968年に栃木県矢板市で発生した「栃木実父殺し事件」は、事件の背景が常軌を逸していたこともあり、事件当時には詳細が報道されることがありませんでした。当時タブーとされた「栃木実父殺し事件」の詳細についてみていきましょう。

父親からの長期に渡る性的虐待

殺人犯となった女性は、実の父親に長年に渡って性的虐待を受けていました。父親は、長女である娘が中学2年生の14歳のときから近親姦を強要し、その後、娘が29歳になって父親を殺害するその日まで性的虐待は続きました。

酒に酔った父親が、寝ていた娘に対して行為に及んだのが最初であり、この際妻が気付かなかったのを良いことに、その後も妻の目を盗んで度々行為は繰り返されました。父親は「母ちゃんに言ったら承知しない。」と娘に口止めをし、脅していたそうです。

性的虐待の事実を知った母親が家出

父親による性的虐待が始まってから一年後、娘は耐えきれなくなり、母親に助けを求めます。事実を知った母親(妻)は父親(夫)を責めましたが、父親(夫)は「自分の娘を自由にしてどこが悪い!」と刃物を持ち出して暴れ回り、今度は母親(妻)に暴力を振るうようになりました。

暴力は激しさを増してゆき、ついに母親は堪え切れずに下の子ども2人を連れて北海道の実家に逃げ帰ってしまいます。母親がいなくなってからも、父親の性的虐待は止まることなく続きました。

その後、娘が17歳になった時に「2度と娘に手を出さない」という約束のもと、母親の実家にて再び一家はともに暮らすようになりましたが、約束は守られることはなく、止めに入ると母親ならず叔父までもが殴られる状況で、誰も父親を止めることができませんでした。

ついに実の父親の子を妊娠

父親による性的虐待が3年間にわたって続き、ついに娘は実の父親の子を妊娠してしまいます。ショックのあまり、娘は知人男性とともに家を飛び出しましたが、娘に対して異様な執着を持つ父親によってすぐに連れ戻されてしまいました。

この騒動により、父親と娘の異常な関係は近所に知れ渡ることとなりますが、誰も娘を助けてくれる人はいませんでした。父親はその後、母親の留守中という隙をついて、娘とその妹の2人を連れて栃木県矢板市の長屋に引っ越し、そこで娘は長女を出産します。

娘は、出産をしたことで一層父親から逃れられないと感じるとともに、いつか逃げるためにと密かに荷物をまとめていたそうです。

父親の子どもを11回妊娠

その後も性的虐待は終わることなく続き、娘は最初の出産を含めると出産を6回、中絶を5回の計11回も父親に妊娠させられました。実の娘に対し父親が行ってきたことは、まさに鬼畜の所業です。

娘は、出産した子どもたちや同居をしている自分の妹のことを考えると逃げ出すことができず、ひたすら耐えるしかなかったそうです…。

働き始めた工場で同僚と恋愛関係に

そんな生活を続けるうちに、いつしか娘も25歳になり、父親との間に生まれた子どもたち(途中で夭折した子もおり、最終的に子は3人)も大きくなって手がかからなくなってきたため、娘は近くの印刷工場で働くようになりました。

働くこと4年、娘は29歳のときに職場で出会った7歳年下の男性と初めての恋をします。父親の目を盗んでデートを重ね、ついに男性側から結婚の申し込みをされるまでとなりました。

娘は意を決し、父親に結婚の許しを得ようと試みますが、父親がそれを許すはずはなく、「今から男の家に行って話をつけてくる。ぶっ殺してやる!」と激怒し、大暴れするばかりでした。

父親を絞殺

娘は家出をしようともしますが、運悪く父親が帰宅して見つかってしまい、激怒した父親が公衆の面前で大暴れをし、近所の人が取り押さえるという大騒動となってしまいます。この騒動以来、父親は娘を監禁するようになり、娘は外出をすることができなくなってしまいました。

そして、1968年(昭和43年)10月5日午後9時30分過ぎ頃、この日も父親は「売女(ばいた)、出ていくんなら出てけ。どこまでも追ってゆくからな。俺は頭にきているんだ。3人の子どもは始末してやる。おめえはどこまでも呪い殺してやる。」などと娘に暴言を吐いて責め立て、襲いかかってきました。

娘は「自由を得るためには、もはや父親を殺害するよりほか、すべはない。」と悟り、枕元にあった股引きの紐で父親の首を締めて殺害しました。その際、父親は「さあ殺せ。お前に殺されるなら本望だ。」と言ったそうです…。

父親を殺害後、娘は子どもを連れて近所の雑貨商に駆け込み、「おばさん、父ちゃんを殺しちゃった。」と告白し、駆けつけた警察官によって逮捕されました。これが、栃木県矢板市で起きた「栃木実父殺し事件」(栃木県矢板実父殺人事件)の全容です。

栃木実父殺し事件の判決

15年間にわたる実の父親による性的虐待の果てに、娘が父親を殺害するという異常かつ悲劇的な「栃木実父殺し事件」ですが、この事件の裁判はどのような経過を辿ったのでしょうか。「栃木実父殺し事件」の裁判の流れや判決についてまとめます。

判決が下ったのは事件発生から5年後

「栃木実父殺し事件」の裁判は、単純に尊属殺人としては片付けられない事件の特異性もあって最高裁判所まで持ち上がり、判決が下るまでに長い期間を要しました。最終的な判決が下ったのは、事件が発生した1968年から5年後の1973年でした。

史上初めての違憲判決

「違憲」とは、憲法の規定に違反していることを言います。日本国憲法第10章に日本国憲法の最高法規性が定められており、すべての法令等は憲法の規定に違反してはいけないことになっています。前述の通り、「栃木実父殺し事件」の裁判では、尊属殺人罪が日本国憲法第14条に対して違憲であるか否かが争点となりました。

日本国憲法第14条では「法の下の平等」として、『すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。』とされています。

そのため、血族(身内)の殺害である尊属殺人が通常の殺人よりも罪が重いというのは、「法の下の平等」に反する(違憲)のではないかということです。最終的にこの裁判では、違憲判決が出ており、法律が憲法に違反していると判断された史上初めての事件となりました。

判決は懲役2年6ヵ月・執行猶予3年

当時定められていた尊属殺人罪には執行猶予がなく、判決は死刑か無期懲役の二択しかありませんでした。「栃木実父殺し事件」を尊属殺人罪として裁くのであれば、父親を殺した娘は死刑か無期懲役となってしまいます。

そのため、宇都宮地方裁判所における一審判決では、尊属殺人罪を「違憲」とし、過剰防衛であったとして刑の執行を免除するという判決が出されました。しかし、すぐに控訴され、二審の東京高等裁判所では逆に尊属殺人罪が「合憲」とされてしまいます。

その上で最大限の減刑を行い、未決勾留期間の全てを算入して、懲役3年6ヶ月の実刑という有罪判決が出されました。この際、尊属殺人罪が合憲とされてしまったために、執行猶予はつきませんでした。

その後、1973年4月4日に行われた終審の最高裁判所大法廷では、「刑法200条(尊属殺人罪)は憲法14条(法の下の平等)に違反して無効」という判決とともに、刑法199条(殺人罪)のもと情状を酌量して懲役2年6ヶ月、執行猶予3年の判決が下されました。

紆余曲折はありましたが、最終的に違憲判決となったことで、弁護側が勝利するとともに、被告人である女性も救われる形となりました。

栃木実父殺し事件を担当した弁護士は?

前例のない違憲判決を勝ち取り、日本の憲法を変える歴史的な事件ともなった「栃木実父殺し事件」ですが、その裏には、弁護士親子の情熱と正義感、人情溢れるドラマがありました。「栃木実父殺し事件」を担当した弁護士親子についてご紹介します。

担当は大貫大八弁護士

「栃木実父殺し事件」を最初に担当したのは、故・大貫大八(おおぬきだいはち)弁護士でした。大貫大八弁護士は昭和3年に弁護士事務所を開業し、弁護士の他にも宇都宮市議や衆議院議員の経験もあります。

大貫大八弁護士が「栃木実父殺し事件」を担当することになったのは、事件発生から数日後に、ひとりの女性が事務所を訪ねてきたことがきっかけでした。この女性こそ、父親を殺害してしまった娘の母親だったのです。

母親は涙ながらに、大貫大八弁護士と息子の大貫正一(おおぬきしょういち)弁護士に事件の経緯や娘の境遇などの詳細を語りました。大貫大八弁護士と正一弁護士も涙を流しながら、話を聞いたそうです。

後に大貫正一弁護士はこの時のことを、「オヤジも私もこらあえらい事件だと思った。これが実刑になったら大変だ。だって、可哀想じゃないか…。実刑を逃れるには、200条を憲法違反にして無効にするしかない。」と話しています。

当時、刑法200条(尊属殺人罪)に関しては、毎年平均して34件の合憲判決が積み上がっており、この状況の中で初の違憲判決を勝ち取るのは、非常に大きな挑戦でした。

栃木実父殺し事件の弁護は無報酬

母親は貧しかったため、十分な金銭を持ち合わせておらず、せめてもの代わりにとリュックサックにいっぱいのジャガイモを詰めて持参していました。大貫大八弁護士はジャガイモを快く受け取り、金銭は一切受け取ることはなく、無報酬で弁護を引き受けました。

大貫弁護士親子の最高裁まで続く挑戦は、このたくさんのジャガイモから始まったのです。

大貫大八弁護士の戦い

大貫大八弁護士は、事件の経緯から被告人である女性を実刑ではなく、執行猶予判決にしたいと考えました。しかし、尊属殺人罪では死刑か無期懲役の選択肢しかなく、執行猶予はつきません。

そのため、大貫大八弁護士は実刑判決を免れるために、「刑法200条の法令違憲および、適用違憲」、「傷害致死」(殺意はなかったが傷害を加えた結果、死亡させてしまったこと)、「嘱託殺人」(しょくたくさつじん・被害者の同意により殺害したということ)、「正当防衛」(自分の身を守るためにやむを得ず行ったこと)、「心神耗弱」(しんしんこうじゃく・善悪の判断能力が著しく低下している状態。)、「自首」といった数々の主張を並べました。

地方裁判所での大貫大八弁護士の弁論は、「被告人の女としての人生は父親の強姦によって始まるのである。このような悲劇がこの世で他にあるであろうか。」という一文から始まり、事件の特異性を強調し、見事一審では違憲判決を勝ち取ります。

入院で息子の大貫正一が引き継ぐ

その後すぐに控訴され、事件は高等裁判所に移り、二審では逆転実刑判決が下されてしまいますが、大貫大八弁護士にとってこの展開は十分想定の範囲内でした。しかし、大貫大八弁護士は上告手続きを終えた後にがんのために入院をし、裁判の結果を見届けないままこの世を去ることとなってしまいます。

そんな父の後を引き継いだのが、息子の大貫正一弁護士でした。三審の最高裁を任されることになった大貫正一弁護士ですが、最高裁が大法廷に切り替わったことと、最高裁では異例である弁論の機会を与えられたことから、審理の段階で手応えを感じていたようです。

小法廷から大法廷への切り替えは、最高裁が大きな憲法判断を下す際に必ず行われるそうで、違憲判決への期待が高まりました。最高裁の場で、大貫正一弁護士は亡き父・大貫大八弁護士と同様、事件の特異性を強調するとともに、熱意溢れる弁論をします。

弁論の一部を抜き出すと、「本件被害者のごとき父親をも刑法200条は尊属として保護しているのでありましょうか。かかる畜生道にも等しい父であっても、その子は子として服従を強いられるのが人類普遍の道徳原理なのでありましょうか。本件被告人の犯行に対し、刑法200条が適用されかつ右規定が憲法14条に違反しないものであるとすれば、憲法とはなんと無力なものでありましょうか。」というものです。

大貫正一弁護士の情熱は最高裁を動かし、1973年4月4日、ついに史上初めての違憲判決を勝ち取り、亡き父・大貫大八弁護士が目指したゴールに辿り着くことができたのでした。親子2代にわたる弁護士の活躍により、新たな法律の歴史がつくられたのです。

栃木実父殺し事件のその後は?

執行猶予を得て、無事に出所をすることができた女性は、その後どのような生活を送ったのでしょうか。また、違憲判決が出た刑法200条の尊属殺人罪は、その後どうなったのでしょう。「栃木実父殺し事件」のその後についてみていきましょう。

長女は旅館で働く

女性は最高裁での判決の後に釈放されますが、この時34歳になっていました。その後は、持ち前の明るく朗らかな人柄を活かして、栃木県内の旅館で女中として働き、新たな人生をスタートさせたとされています。

父親との間に生まれた子どもたちは施設に預けられましたが、週に一度会って遊ぶことができるのを、女性も子どもたちも楽しみにしていたそうです。また、その後に知り合った男性と結婚をしたという情報もあります。

尊属殺重罰規定が撤廃

1973年4月4日に違憲判決の確定判決が下された刑法200条の尊属殺人罪ですが、その後この刑が適用されることはなく、22年間にわたって死文化されたまま刑法の条文中に残り続けました。

そして、村山富市政権下の1995年に行われた刑法改正の際に、尊属殺人罪をはじめとする尊属傷害致死罪、尊属遺棄罪、尊属逮捕監禁罪もすべて削除されることとなりました。現在の六法には、刑法200条の箇所に「削除」の文字だけが記載されています。

法の歴史に残る「栃木実父殺し事件」

15年間にも及ぶ父親の鬼畜な行いの末に、殺人を犯してしまった「栃木実父殺し事件」(栃木県矢板実父殺人事件)は起きてはならない事件でしたが、この事件をきっかけに法律が見直され、以後多くの人々が救われることとなったのも確かです。

「栃木実父殺し事件」の裁判結果を報じる新聞には、当時『悪夢、忘れます』という見出しが載りました。失われた悪夢の15年間は決して戻っては来ませんが、その後、女性は幸せな新しい人生を歩むことができたようです。

法の歴史に残る「栃木実父殺し事件」を忘れず、二度とこのような悲劇が繰り返されないように願います。

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この記事のライター
hk1808
情熱的な旦那に根負けし、23才で結婚。 現在は、子鉄の小学生男子と女子力の高い園児女子に日々振り回されています。...

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