大屋政子とは?元祖セレブタレントの経歴や帝人社長との略奪婚など!

セレブタレントとの先駆けと言える大屋政子さんですが、人生は波乱に満ちたものでした。裕福な家庭の大屋政子さんでしたが父親の急死で生活は一変、帝人社長の大屋晋三さんとの略奪婚。セレブタレントとしての生活、晩年の没落など大屋政子さんの経歴についてご紹介します。

大屋政子とは?元祖セレブタレントの経歴や帝人社長との略奪婚など!のイメージ

目次

  1. 1元祖セレブタレント「大屋政子」の経歴や略奪婚など解説!
  2. 2大屋政子の若い頃
  3. 3大屋政子の帝人社長との略奪婚
  4. 4大屋政子の借金と晩年
  5. 5大屋政子さんの信念は生きている

元祖セレブタレント「大屋政子」の経歴や略奪婚など解説!

元祖セレブタレントと呼ばれた大屋政子さんですが、ご主人で帝人社長の大屋晋三さんを「おとうちゃん」と呼び、関西弁の明るいしゃべりでとても人気がありました。そんな大屋政子さんのプロフィールと経歴についてご紹介します。

大屋政子のプロフィールと経歴

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名前 大屋政子
生年月日 1920年(大正9年)10月27日
没年齢 78歳 
出身地 大阪市阿倍野区北畠
職業 歌手、タレント、財団理事、バレエ教室校長、ゴルフ場経営等々
大屋政子さんは大阪市阿倍野区に生まれています。父親は衆議院議員ですが、母親も大阪で鴻池の次と言われるほどの資産家の家の出でした。その後没落と栄華を経験していきます。

議員「森田政義」の娘として生まれる

大屋政子さんは衆議院議員であった森田政義さんの3人兄弟の末っ子として生まれています。森田政義さんは熊本県天草出身、母親は大阪府出身です。森田さんは弁護士資格も持ち衆議院議員を6期務める名士でありました。家は大変裕福で大屋政子さんは「お嬢様」として育てられました。

台風レディーと異名

大屋政子さん(旧姓森田政子)は国会議員で会った大屋晋三さんが政界を引退し帝人社長に復帰したのちはその才覚を生かし財界に進出します。ゴルフ場経営などを行いました。帝人の影の女帝と呼ばれ、台風レディーの異名をとるほどだったのです。

胃癌のため78歳で死去

帝人社長夫人であった大屋政子さんですが、夫の死後しばらくして1997年に胃癌がであることがわかりました。不幸にも胃癌は他の臓器にも転移していました。絶頂期には多くの人に囲まれていた大屋政子さんでしたがそのころは見舞いに訪れる人もほとんどいない状態でした。

唯一大屋政子さんを看病していたのは、一度は仲たがいしていた愛娘の大屋登史子さんでした。1999年1月に大屋政子さんは亡くなりました。

大屋政子の若い頃

波乱万丈の人生であった大屋政子さんですが、衆議院議員であった大屋政義さんのもとで裕福な暮らしをしておりましたが、突然の不幸で生活が苦しくなっていきます。それはどのような状況だったのでしょうか。大屋政子さんの若い頃についてもう少し詳しくご紹介していきます。

父政義が心臓発作のため急死し没落

大屋政子(旧姓森田政子)さんが生まれたころの森田家はとても裕福でした。父親の森田政義さんは衆議院議員で多くの人が訪れておりました。ところが大屋政子さんが19歳の時に父親の森田政義さんが急死してしまうのです。心臓発作でした。

そのあとからは森田家は没落していきます。多くの人が訪れていた森田家には誰も訪れなくなってしまします。懇意にしていた家を訪ねるのですが、もはや門さえも開けてくれることはありませんでした。

「没落したらあかんねん」が口癖に

このころの大屋政子(旧姓森田)さんの経験はその後の人生に大きく影響していきます。家が傾くと周りにいた人は助けてくれるどころか去ってしまうという経験をした大屋政子さんは「没落したらあかんねん」という言葉を口癖にするようになります。

大阪音楽学校中退そして歌手に

大屋政子(旧姓森田)さんは大阪音楽学校の本科に入学しますが、中退します。その後コロンビアレコードに入社し歌手としての生活が始まります。戦時中などは軍専歌手として、工場などで慰問公演を行いました。

戦後になるとテイチクに入ることとなります。専属歌手でした。レコードも発売するなど芸能活動を行っています。芸名は御風真弓と呼ばれていました。

大屋政子の帝人社長との略奪婚

大屋政子(旧姓森田)さんは帝人社長の大屋晋三さんと結婚していますが、略奪婚と言われています。どのような状況だったのでしょうか?経緯などをご紹介していきます。

大屋晋三氏と玉の輿婚

大屋晋三さんと大屋政子さんの出会いは1947年に帝人の社長であった大屋晋さんが一時的に帝人を離れ大屋政子さんに参議院選挙の選挙応援を依頼する所から始まります。大屋政子さんは衆議院議員であった森田政義さんの地盤を持っていたためです。

「うちのパパはねえ」と言う言葉とともに大屋政子さんは大屋晋三さんの選挙応援を行い、大屋晋三さんは当選します。当選祝いの際にも「うちのパパがね」と繰り返していたということです。

大屋晋三さんとの間に子供も生まれたことから、大屋晋三さんと元妻の離婚協議が本格的に進められ、2人は1950年5月に結婚します。世間は「現役大臣の新版・老いらくの恋」などと面白おかしく書き立てます。略奪婚とも呼ばれましたが、現役大臣との結婚は玉の輿婚と言っていいでしょう。

結婚したときの二人の年の差は27歳でした。大屋政子さんが29歳、大屋晋三さんが55歳の時です。不倫の末の略奪結婚という形になりましたが、この結婚を機に大屋さんの華やかな人生の時代が始まるのです。

大屋晋三氏は大臣を辞職し帝人社長に

大屋晋三さんは1956年に行われた参議院選挙には出馬しませんでした。政界を引退したのです。大屋さんはその後帝人の社長に復帰します。そのころから大屋政子さんは財界に進出するようになります。帝人の影の女帝とも呼ばれていました。

大屋政子さん自身も、ゴルフ場経営、不動産、病院、海外レストランなどを次々と展開し女社長として名をはせていました。大屋晋三さんを「うちのおとうちゃん」と呼ぶ姿も有名でした。

テレビなどにも多く出演し、派手な衣装やミニスカートなどそして大阪弁で茶の間の人気ものになりました。国内外のVIPとの交流も華やかでオードリー・ヘプバーンやフランスのミッテラン大統領夫人などとも親交を深めセレブタレントと言われました。

大阪一の高級住宅街である帝塚山の大豪邸はとくに有名で700坪の地上3階、地下2階で14部屋にキッチンは7つという立派なものでベッドルームは250坪あったと言われています。

大屋晋三氏との間に娘が生まれる

大屋晋三さんとの間には登史子さんという娘が生まれております。2人いるらしいのですが表に出てきているのは登志子さんという娘さんのみです。登史子さんは医療法人健友会帝塚山病院の理事長を務めていらっしゃいます。

1980年に大屋晋三氏が死去

不倫の上に結婚した大屋晋三さんを生涯愛した大屋政子さんですが、1980年に大屋晋三さんが亡くなります。後ろ盾であった大屋晋三さんが亡くなった後は、関係者は大屋政子さんの事業を批判するようになりす。大屋政子さん事態もこの環境の中で周囲の人に猜疑心を抱くようになっていきます。

大屋政子の借金と晩年

大屋晋三さんの妻として栄華を極めた大屋政子さんですが、大屋晋三さんの死とともに状況は変わっていきます。多額の借金をするなどその晩年はさびしいものでした。大屋政子さんの借金と晩年の生活についてご紹介します。

側近に2億3000万を横領される

大屋政子さんには不幸と言えることが発生します。1996年のことですが、自らがオーナーを務める名門のゴルフ場に関するものです。側近として信頼していた人物に2億3,000万円を横領されてしまったのです。

側近はゴルフ場のコースの運営費や改装にかかる費用などに関して架空工事を繰り返していました。大屋政子さんは人間不信に陥ってしまうのです。

ゴルフ場経営で借金が100億

大屋政子さんの不幸はさらに続きます。その翌年ですがこのゴルフ場が負債を抱えていることがわかりました。その額はとても高額でなんと100億円でした。大屋政子さんはその負債を返済するために持っていた資産を売却せざるを得なくなりました。

大屋政子さんは国内外のゴルフ場、さらにマンションや株式などを売却しその負債に当てます。ただし海外のゴルフ場などの資産は赤字に陥っており、買値よりかなり安い値段で売却することとなります。売却で得たお金も従業員の未払い給料に消えることとなります。

最後の言葉「こんな弱い母親でごめんね」

1997年に胃癌であることがわかった大屋政子さんは末期癌の病床にあっても、「医者になめられたらあかん」浴衣にコマンドール勲章をつけていたそうです。大屋政子さんらしい逸話かもしれません。

人間不信になり家族などと絶縁していた大屋政子さんですが、最後の面倒を見たのは娘の大屋登史子さんでした。大屋政子さんは娘の登史子さんに「こんな弱い母親でごめんね」と言ったそうです。1999年1月のことです。闘病は世間に公表されることはありませんでした。

300億円と言われた資産は彼女の死後、大豪邸や株など数億円にまで減っておりました。まさに波乱万丈の人生とはこのことかもしれません。

大屋政子さんの信念は生きている

信頼していた人の裏切りなどで人間不信に陥っていた大屋政子さんですが、大屋政子さんの残したものは残っています。人間ドック付の老人病院「帝塚山病院」また、大屋政子さんの帝塚山の自宅は彼女の死後解体され老人ホームとなっています。

その名前は「マサコーヌ帝塚山」と呼ばれ、政子さんの名前にちなんだものです。「退院しても帰る家の無い人に老人ホームを作りたい」という考えによるものです。病院や老人ホームの理事長は娘の登史子さんが勤めています。

大屋政子さんの遺産や意思はこのような形で残り現在でも社会に貢献しているのです。大屋政子さんの信念は今でも生きているといえるでしょう。

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