おっとい嫁じょとは?鹿児島でのおっとい嫁じょ事件や現在!

鹿児島県大隅半島の一部地域で昭和34年まで実際にあった風習「おっとい嫁じょ」とは?男が結婚したい女性を無理やり連れ去って結婚を迫り、本人が同意しなければ強姦してでも強引に結婚するという。実際に起こった「おっとい嫁じょ事件」についてご紹介します。

おっとい嫁じょとは?鹿児島でのおっとい嫁じょ事件や現在!のイメージ

目次

  1. 1鹿児島の奇習【おっとい嫁じょ】とは?事件や現在をご紹介!
  2. 2鹿児島の奇習「おっとい嫁じょ」とは?
  3. 3おっとい嫁じょ事件とは?
  4. 4おっとい嫁じょ事件の現在
  5. 5他にもある日本の怖い風習
  6. 6「おっとい嫁じょ」と男女の関係

鹿児島の奇習【おっとい嫁じょ】とは?事件や現在をご紹介!

鹿児島県の大隅半島にある肝属郡串良町で、古くから地元の風習として行われてきた誘拐婚「おっとい嫁じょ」が、昭和34年に地元男性により再現されました。当時「おっとい嫁じょ事件」として人々を驚かせた事件についてご紹介します。

鹿児島の奇習「おっとい嫁じょ」とは?

もともと鹿児島の方言で”盗む”ことを「おっとる」と言っていました。また、昔から日本では”花嫁”のことを親しみを込めて「嫁じょ」と呼んでいました。つまり、今風に言うと「花嫁さん盗み」といった意味になります。

しかし、その牧歌的な言葉の響きとは裏腹に、実は「おっとい嫁じょ」は残酷で恐ろしい風習だったのです。

誘拐婚とは

誘拐婚についてご存知でしょうか?男性が女性を無理やり連れ去って誘拐して、女性の意思に反して強引に結婚を成立させてしまうものです。

誘拐婚の歴史は古く、古代ローマ時代の「サビニの女たちの掠奪」の伝説が有名です。ローマ時代の初期、女性が少なく子供を作ることが急務だったローマ人が、隣国のサビニ人たちを騙して大量の未婚女性を誘拐して、自分たちの妻としたことが伝わっています。

現在も誘拐婚の風習がアジアやアフリカなどの一部に残っています。時々その非道さが報道等で取り上げられることもあり、女性の人権侵害であるとして非難されています。

日本の誘拐婚

過去には、「嫁盗み」「嫁担ぎ」などと呼ばれる同様の誘拐婚の風習が日本各地にみられました。民族学者の柳田圀男も、その著書の中で日本に古くからあった誘拐婚について事例をあげて紹介しています。

紫式部の小説『源氏物語』の中に出てくる紫の上も、幼い頃に光源氏さらわれて、その後彼の妻となったので誘拐婚であるといえます。昔、日本では誘拐婚は特に珍しい風習ではなかったともいえます。

おっとい嫁じょとは誘拐婚

鹿児島の風習「おっとい嫁じょ」もまた、その誘拐婚の一つでした。日本では、縁談の際に女性の純潔がとても重要視されていました。そのため、ひとたび男性との噂が立つと、ことの真偽にかかわらず結婚することが難しくなってしまう世の中だったのです。

「おっとい嫁じょ」は、それを逆手にとった男性による、結婚を承諾しない女性を誘拐し強姦して既成事実を作って結婚してしまおうという、強引で身勝手な作戦だったともいえます。

このような女性にとって理不尽ともいえる「おっとい嫁じょ」の風習が、実際に昭和34年まで日本の鹿児島で行われていたのです。

女性を強姦して嫁にする風習

「おっとい嫁じょ」の非道さは、その手段にありました。当時の日本では、結婚は家同士のお見合いで決まることが一般的でした。しかし、お見合いの結果、男性側が結婚に大いに乗り気になっても、女性側からお断りするようなこともありました。

それでも男が諦めきれず相手の女性と結婚したい場合に、非常手段として「おっとい嫁じょ」を実行にうつしたケースがあったのです。

女性を誘拐して結婚の承諾を迫り、それでもダメなら強姦して既成事実を作り、相手が結婚せざるをえない状況に追い込むという卑劣な手段です。

おっとい嫁じょ事件とは?

現在の日本では到底許されるはずがない鹿児島の「おっとい嫁じょ」の風習ですが、そう昔とも言えない昭和34年に、実際にその名がついた「おっとい嫁じょ事件」が起こりました。

当時、新聞にも報じられて世の中の人々を驚かせた「おっとい嫁じょ事件」については、裁判の記録も残っています。

舞台は「鹿児島県肝属郡串良町」

事件が起きたのは、鹿児島県の大隅半島にある肝属郡串良町でした。現在では周辺地域との合併により鹿屋市という名称に変わっています。

その海と山の豊かな自然に恵まれた風光明媚な南国の町が、記録に残る最後の「おっとい嫁じょ事件」の舞台となったのです。

事件の主犯は在住青年

「おっとい嫁じょ事件」の主犯となったのは、地元在住の青年Aでした。そのほかにAの親類である従兄と叔父の2名が協力者としてその犯行に加わりました。

青年が何度も結婚を迫るが拒否

事件は、昭和34年(1959年)に起こりました。Aは、彼に結婚を勧める義兄の紹介によりB子(20)に出会いました。B子に一目惚れしたAはその場でプロポーズし、その後も2回プロポーズしましたが、後日、B子の兄から結婚を断られてしまったのです。

女性を数人で強姦

B子との結婚をあきらめきれないAは、「B子を強姦して無理にでも結婚しよう」と決意し、協力者の親類2名とともに犯行を計画したのです。

B子を連れ去り監禁して、結婚を承諾するように説得する。もしもB子が承諾しない場合には、3人で彼女を強姦しようと決めました。

事件の当日は、3人の男たちは事前に立てた計画の通り、B子の外出先であった公共職業安定所の近くで待ち伏せして彼女を無理やりタクシーに乗せ、近隣の食堂へと拉致しました。

3人は、まずB子にAとの結婚を承諾するように説得を試みました。しかし、B子が拒絶したため、3人は犯行を実行することとしたのです。

その後、3人はB子に彼女の家に送ると嘘をついて、無理やりタクシーに乗せて食堂を後にしました。行先が自宅でないことに気付いたB子が、途中で車を降りたいと懇願しましたが応じず、3人は事前に手配していたAの知人の家に彼女を拉致したのです。

そして、深夜になって、極度に怯えきったB子の体を押さえつけて3人で強姦におよび、彼女に要治療5日日の怪我を負わせたのです。

強姦致傷罪で犯人逮捕

犯行後、B子が警察に被害を通報したため、Aとその協力者2人は、B子に対する強姦致傷の容疑で警察に逮捕されました。しかし、逮捕されるまで、3人は別の結果を期待していたのです。

3人は、「おっとい嫁じょ」の風習に従ってうまくことを成しとげたので、B子の身に起こった事実を知った彼女の家族がAの家に結婚の挨拶に訪れ、両家の結婚が本決まりになるはずだと考えていたのです。

しかし実際には、Aら3人は強姦致傷罪でB子から訴えられる結果となり、当然ながらAはB子と結婚することはできなかったのです。

犯人の弁護士は無罪を主張

この「おっとい嫁じょ事件」の裁判で、驚くべきことにAの弁護士は、彼の無罪を主張しました。弁護士は、Aが居住する串良町地方に結婚に同意しない女性を男が強姦した上で強引に結婚する「おっとい嫁じょ」の風習があり、Aは違法と認識しないままその風習に従っただけだと主張したのです。

さらに驚くことに、Aの両親もまた「おっとい嫁じょ」により結婚した夫婦だということが明らかになりました。つまり、Aは「おっとい嫁じょ」を肯定せざるを得ない家庭に生まれ育った子だったのです。

周辺住民の嘆願書が提出

事件を巡って地元住民たちが起こした動きもまた、弁護士の主張を後押しするものが多かったのでした。地元住民からは、Aの無罪及び情状酌量を求める嘆願書が多数提出されました。

嘆願書には、自分が子供の頃から「おっとい嫁じょ」は行われていたので、悪いことのはずがない、という訴えや、警察や司法が古くから続く町の風習に口出しすることへの怒りも綴られていました。

特筆すべきことは、嘆願の中には青少年の教育に携わる地元小学校の校長からの訴えも含まれていたことでした。

裁判の結果有罪となる

裁判の結果、AはB子に対する強姦致傷罪で有罪となりました。強姦行為が反社会的で反道徳的なことは明白で、Aの供述内容からも本人が違法性を認識していたことが窺えるため、土地の風習に従っただけという弁護も嘆願も通用しなかったのです。

事件の影響

当時、鹿児島の「おっとい嫁じょ事件」は新聞等でセンセーショナルに報じられました。「おっとい嫁じょ」のような、非道で男尊女卑的な風習がいまだ残っている地域があり、それを地元住民が許容しているという事実が、日本中の人々を驚かせました。

おっとい嫁じょ事件の現在

現在、世間を騒がせた鹿児島の「おっとい嫁じょ事件」の発生から60年ほど経ちました。事件の舞台となった鹿児島では、今でも「おっとい嫁じょ」の風習は残っているのでしょうか。事件のその後についてご紹介します。

懲役3年が軽すぎると問題に

「おっとい嫁じょ事件」の主犯者Aは、裁判により強姦致傷罪で懲役3年の実刑判決を受けました。当時の法律では、強姦致傷罪よりも重い集団強姦罪がまだありませんでした。

犯行の状況やB子が受けた精神的・身体的な被害の大きさを考えると、現在であれば集団強姦罪が適用され、もっと重い判決がくだった可能性も高いと考えられます。

現在では風習は残っていない

「おっとい嫁じょ事件」の後で、鹿児島で「おっとい嫁じょ」の風習が新たに行われたという記録は一切確認されていません。

しかし、現在でもその風習によって結婚した夫婦や、その子孫たち、「おっとい嫁じょ事件」の関係者だった人たちが存命していることは十分に考えられます。

同様の風習は今は廃れている

誘拐婚は、なぜ日本で行われていたのでしょうか?当時の日本の社会的背景が影響していたとも言えます。「おっとい嫁じょ事件」のように男性が強引な結婚目的で行ったケースだけでなく、女性の家が経済的な理由で持参金を用意できず双方の家の了解のもとで行われたケースもありました。

また、女性が相手の男性の子供をすでに妊娠しているなど、事情が複雑で公に結婚式ができない理由があったり、結婚を反対された二人が強硬手段として決行したケースもあったのです。

いずれにしても、人権に対する意識が高まり男女平等をうたう現在の日本において、「おっとい嫁じょ」のような誘拐婚の風習が廃れて無くなるのは当然のことだと言えます。

他にもある日本の怖い風習

実は、「おっとい嫁じょ」以外にも、日本には常識では考えられないような怖い風習がたくさんあることをご存知でしょうか。これからご紹介する奇妙な風習の中には、一部現在でもおこなわれていると言われる風習もあります。

ヤドカリ葬

現在の日本の法律では、遺体は火葬にすることが義務付けられています。しかし、奄美大島の一部集落において、過去に「ヤドカリ葬」という独特の風習によって死者を弔っていたところがあるのです。

その集落では死者が出ると、島民たちが遺体を「ニューデバナ」という小さな島に船で運び出して、その島に遺体を置いてくるのです。その島に生息するヤドカリに遺体を食べてもらうことで、遺体の肉を取り去り骨にする風習がヤドカリ葬でした。

島に渡った弔いの人々が船で島を去る頃、静まり返った島の彼方から「シャムシャム」「シャムシャム」というヤドカリが遺体の体液を吸い取る音が聞こえたという話が伝わっています。

クロ

鹿児島県の南方の東シナ海に浮かぶK島列島には、「クロ宗」という名の土着宗教が信仰されています。江戸時代に、徳川幕府によるキリシタン弾圧から逃れて島に流れ着いたキリスト教信徒が、キリスト教を土着化させた宗教と言われています。

信徒たちは口がとても堅く、「クロ宗」について信者以外に語ることはありません。クロ宗の信徒は、自分の家を外から見られることを嫌い、家の周りに高い塀を廻らせています。

謎めいたクロ宗について、ある不気味な噂がささやかれています。信者に死が近づくと、島の信者たちが集まって行う儀式があるといいます。まだ信徒の息があるうちに、その生き血を飲み、内臓を取り出して食べるのだと言われています。

宮城県女川原発

宮城県の女川原発にほど近い漁港の町に、ある不気味なしきたりがあると言われています。女性の初潮の血、破瓜の血を、その家の家主が必ず飲まなければならないとされています。

もしも、しきたりに従わない者がいると、その者は女川原発への就職ができず、原発の利権も得られないと言われています。

死後婚

日本の法律では、死後に結婚することは認められていません。しかし、昔は、亡くなった故人を結婚させる「死後婚」が風習として行われていたことが知られています。

中でもよく知られているのが、山形県の村山地方で行われていた「ムカサリ絵馬」という死後婚の風習です。嫁に「迎えて」「去る」の意味から、このように呼ばれるようになったといいます。

若くして未婚のまま亡くなった子供の結婚を叶えたい親心から行われた風習といわれ、一般的には故人と架空の花嫁の姿を絵馬に描いて、その絵馬を寺に奉納しました。

しかし、時には故人が生前に思いを寄せていた女性や、好みだったと思われる女性を探して、絵馬に個人とその生きた女性の絵を描くこともありました。その場合、描かれた女性が個人に引っ張られて早死にすると言われ恐れられていたのです。

「おっとい嫁じょ」と男女の関係

鹿児島で「おっとい嫁じょ事件」が起こったのは、それほど昔とはいえない昭和の中頃のことでした。一人の女性が男性の身勝手で不当な暴力によって、その尊厳をひどく傷つけられたことは、実に痛ましいことです。

事件から60年という歳月を経て、人々の事件の記憶は薄れ、当時の事件の舞台となった土地に住む人たちも「おっとい嫁じょ事件」のことも「おっとい嫁じょ」という風習があったことさえも知らない人が多くなりました。

しかし、現在でも女性が性被害に巻き込まれる事件はたびたび起こっており、理不尽な性差別に苦しむ女性も多くいます。現在の日本においては、男女平等な世界が実現したとは必ずしも言えない状況です。

今後、私たちは、男性と女性の双方がお互いをリスペクトし合って、すべての人々が自由に生きられる真に平等な世界を作るべく努力したいものです。

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この記事のライター
Anne

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