- 黒沢年雄の俳優歴や死亡説など!今現在をご紹介!
- 黒沢年雄とは?
- 黒沢年雄のプロフィール
- 第4期東宝ニューフェイスに合格後俳優に
- 黒沢年雄のトレードマークは?
- 弟は元「ヒロシ&キーボー」のくろさわ博
- 「オウミ住宅」のCMで話題に
- 黒沢年雄の出演作品
- 出演映画「日本のいちばん長い日」
- 出演映画「修羅雪姫」
- 出演ドラマ「ザ・ハングマン」
- 黒沢年雄の歌手活動
- ヒット曲「時には娼婦のように」
- 黒沢年雄の死亡説の真相
- 8回の癌手術
- 入院でテレビ出演が減り死亡説が浮上
- 「絶対に医者を信じて。」とメッセージ
- 黒沢年雄は借金があった?
- 8億の借金を抱える
- 不動産の投資で失敗
- 2015年に完済
- 黒沢年雄は結婚している?現在は?
- モデルの街田リーヌと結婚
- 娘の「黒沢レイラ」も芸能界に
- NHKBSプレミアムの「ラギッド!」に出演
- 黒沢年雄さんのこれからが楽しみ
黒沢年雄の俳優歴や死亡説など!今現在をご紹介!
俳優の黒沢年雄さんをご存知ですか?最近では、テレビのバラエティ番組などに出演している姿を見て、ひょうきんな語り口と人懐こい笑顔、そして黒いニット帽が良く似合う紳士、という印象を持たれている方が多いかもしれません。
現在はタレントとしての活動が目立つ黒沢年雄さんですが、俳優として目覚ましい経歴をお持ちです。黒沢年雄さんのこれまでの俳優としての活動や、過去に流れた死亡説の謎、そして現在の仕事などについてご紹介いたします。
黒沢年雄とは?
黒沢年雄さんの芸能活動の経歴は多彩です。オーディションを勝ち抜いて俳優デビューし、数々の大作映画や人気テレビドラマシリーズに出演していました。俳優としての活動に加えて、歌手としても『時には娼婦のように』などのヒット曲を出した経歴もお持ちです。
一方、がんを患って闘病していたこともあり、一時は死亡説が流れたり、多額の借金を抱えてしまったことが話題になったこともありました。そんな波乱にとんだ黒沢年雄さんの過去から現在までをたとってみましょう。
黒沢年雄のプロフィール
名前 | 黒沢年雄 (本名及び旧芸名:黒沢年男) |
生年月日 | 1944年2月4日 |
現在の年齢 | 75歳 |
出身地 | 神奈川県横浜市西区 |
活動内容 | 俳優、歌手、タレント |
所属事務所 | プロダクション・クロ |
黒沢年雄さんは、1944年2月4日に神奈川県横浜市西区に生まれました。現在の年齢は75歳です。1964年に、映画製作配給会社の東宝株式会社が若手俳優を発掘するために開催したオーディションに合格して俳優デビューしました。
デビュー後は、本名でもある黒沢年男の名前で活動していましたが、2000年に現在の芸名である黒沢年雄に改名しました。所属事務所は、黒沢年雄さんが代表取締役を務める個人事務所「プロダクション・クロ」です。
私生活では、1976年にモデルの街田リーヌ(本名:街子)さんと結婚し、1977年に長女のレイラ(本名:裕美)さんが生まれました。
第4期東宝ニューフェイスに合格後俳優に
そもそも、黒沢年雄さんはなぜ俳優を目指したのでしょうか。ご本人によると「有名になって金持ちになりたかった」ということです。1964年、20歳の時に映画製作配給会社である東宝株式会社が開催していたオーディションに合格し、俳優デビューしました。
このオーディションは、才能ある新人を発掘することを目的に1946年から1968年まで毎年開催されており、当初は「東宝ニューフェイス」という名称でしたが、1961年に「オール東宝ニュータレント」に変わりました。
オーディション当日、目立とうと5時間以上遅刻し、真っ赤なジャンバー姿で現れました。結果、何万人もの応募者の中、合格した男性は黒沢年雄さんお1人でした。このオーディション出身者には、三船敏郎、岡田茉莉子、宝田明、前田美波里、伊吹吾郎などがいます。
黒沢年雄のトレードマークは?
黒沢年雄さんといえば「ニット帽」姿を思い浮かべる人が多いでしょう。しかし、若い頃の黒沢さんは、パーマをきかせたワイルドなヘアスタイルでした。現在の短髪にニット帽のスタイルになったきっかけは、1992年に大腸がんが発覚したことでした。
大腸がんが見つかり会見を開いた際に、黒沢さんは長髪を短く刈りんだ姿でテレビの前に立ちました。それからは、当時奥さんの持ち物だったニット帽を被るようなりました。現在見慣れた黒沢さんのニット帽姿は、がんの闘病がきっかけで生まれたスタイルだったのです。
また、黒沢年雄さんは無精ひげが大変お似合いのダンディーなイメージがある男性です。無精ひげは当初、芸能界での自分の存在感を強めるために生やし始めたといいます。現在では、ニット帽と無精ひげの姿こそ、黒沢年雄さんトレードマークとなっています。
弟は元「ヒロシ&キーボー」のくろさわ博
黒沢年雄さんには、芸能界で歌手として活動していた弟がいます。1982年に大ヒットした『3年目の浮気』を歌った元コンビ「ヒロシ&キーボー」の黒沢博さんです。『3年目の浮気』は、当時とても流行り、現在でもカラオケのデュエット曲として人気です。
弟の博さんは、最近では2012年のソフトバンクモバイルのCMに本人役で出演し、『3年目の浮気』の替え歌を披露していました。
「オウミ住宅」のCMで話題に
2001年、黒沢年雄さんは滋賀県草津市に本社がある住宅会社「おうみ住宅株式会社」のCMに出演しました。お笑い芸人の”パンチみつお”さんの歌と踊りに合わせてノリノリで踊る黒沢年雄さんの姿と、それまでの硬派なイメージとのギャップが面白くて評判となりました。
それまでの世間の人々がもっていた黒沢年雄さんの真面目で硬派なイメージを変えて、バラエティ番組などのソフト路線への進出に、はずみをつけた仕事といえるかもしれません。
このCMは当初、おうみ住宅の地元である滋賀県のみで放映されていましたが、CMが話題となって放映エリアが他の近畿地方に拡大され、おうみ住宅の知名度も、売り上げも大変伸びたといいます。
黒沢年雄の出演作品
黒沢年雄さんは、俳優としてデビューした後、数々の映画やテレビドラマに出演しています。黒沢さんが出演した数ある作品の中で代表作といえる3作品についてご紹介いたします。
出演映画「日本のいちばん長い日」
黒沢年雄さんは、東宝株式会社の創立35周年を記念して制作された映画『日本の一番長い日』(1967年公開)に出演しています。黒沢さんは当時、デビューから3年後の23歳でした。
映画『日本の一番長い日』は、太平洋戦争での日本敗戦が確定的となった戦争末期に、昭和天皇のもと召集された御前会議で、「降伏か」「抗戦か」か討論される中での人々の様々な思惑や、直面する厳しい状況下で玉音放送に至るまでの道筋を描いた歴史映画です。
黒沢年雄さんの役どころは、日本の降伏を潔しとせずクーデターを起こそうと画策する若手陸軍将校の畑中健二少佐というこの映画の中で大変重要な人物でした。『日本の一番長い日』は、公開後の配給収入が4億4,195万円となった大ヒット映画です。
出演映画「修羅雪姫」
黒沢年雄さんは、時代劇映画『修羅雪姫』(1973年公開)にも出演しています。『修羅雪姫』は、週刊プレイボーイに連載されていた人気漫画を映画化したもので、梶芽衣子が主演して大ヒットしました。
夫と息子を殺した男に復習し捕まった女が、獄中で身籠り生まれた娘が主人公の”雪”です。雪は、修羅雪姫と名乗り亡き母の遺志をつぎ残りの仇3人への復讐を心に誓って生きる女です。黒沢さんは準主役の、雪に何かと関わろうとする謎めいた作家役で出演しています。
明治時代のアウトロー達が息づく裏社会を背景に、美しい着物姿の梶芽衣子が繰り広げる凄まじい殺陣シーンが見ものです。この映画に感銘を受けたクエンティン・タランティーノが、のちに『キル・ビルvol.1』で『修羅雪姫』へのオマージュを捧げた話は有名です。
出演ドラマ「ザ・ハングマン」
黒沢年雄さんは、朝日放送と松竹芸能の共同制作のテレビドラマ『ザ・ハングマン』のシリーズに、2代目リーダーの”マイト”役で出演していました。1980年からテレビ朝日系列で放映され、当初半年間の放映予定のところ、もう半年延長されたほどの人気番組でした。
法で裁くことができない悪人に社会的死の制裁を加える闇の死刑執行人のチーム「ハングマン」。彼らは、戸籍上死亡扱いとなっている元警察関係者達で、メンバーになる際に、顔を整形し指紋を消し去っています。設定が「必殺仕事人」に似ているともいわれています。
黒沢年雄さんが演じたマイトは、前リーダーのブラックの死後、後任としてリーダーとなったキザな男で当時大変人気のキャラクターでした。マイトの名前の由来は、制裁する相手の口を割らせる際に見せていた上着の下に隠し持つダイナマイトによります。
ドラマの中で出演者たちが運転していた、マツダRX-7、日産フェアレディZなどのスポーツカーも、このドラマの見ものでした。
黒沢年雄の歌手活動
黒沢年雄さんは、俳優だけでなく歌手としての活動もしていたことをご存知でしょうか、中には今なおカラオケで歌われることも多い名曲もあります。黒沢さんの歌手としての活動についてもご紹介いたします。
ヒット曲「時には娼婦のように」
黒沢年雄さんが歌った曲の中で代表曲ともいえる「時には娼婦のように」は、当時から売れっ子作詞作曲家であった”なかにし礼”さんが手がけた作品です。この曲は1978年に発売され、シングルレコードの販売数が70万枚にも達する大ヒットとなりました。
一方、当時としては性的ニュアンスを含む表現が多く使われていたことが倫理上問題視され、曲の放映可能時間帯が制限されるなどしたことでも話題となりました。黒沢さん本人も、歌詞の過激さから、この曲を歌うことを躊躇したとも言われています。
黒沢年雄さんの独特の低く甘い歌声が。この曲の雰囲気にマッチしていたことも、曲のヒットに繋がったのでしょう。黒沢さんには、この曲のほかにも「やすらぎ」などのヒット曲があります。
黒沢年雄の死亡説の真相
黒沢年雄さんは、仕事面では俳優、歌手として順調にキャリアを積んできましたが、実はがんを発病しその治療のため芸能活動を休業したことがあります。その際に死亡説が流れたことがあるのです。
黒沢年雄さんが、これまで患ったがんのこと、闘病していた頃のこと、そして今現在の健康状態などについてご紹介いたします。
8回の癌手術
黒沢年雄さんが47歳だった1992年、宿泊先のハワイのホテルで大量に下血し、後で専門医に調べてもらったところ、大腸の「S字結腸がん」と診断されました。黒沢さんはショックと家族を残して死ぬかもしれない、という思いで号泣したといいます。
内視鏡手術でポリープを切除しましたが、転移の心配もあったので半月後に念のため開腹手術でポリープの周りも切除。転移がないことが確認されましたが、世間では「再起不能」と言われて暫く仕事がなくなったといいます。
その後も、2008年に膀胱がん、2013年に食道がん、胃がんが見つかり、これまでがんの治療のため合計8回の手術を受けました。しかし「最初の大腸がんの体験の後でもあり手術に対する恐怖はなかった。早期発見での手術なので入院もほとんど数日だった」といいます。
入院でテレビ出演が減り死亡説が浮上
がんの治療のために入院と休業を余儀なくされたため、テレビ出演の機会が減り、黒沢年雄さんの死亡説が流れました。
黒沢さんにとって、仕事をしたくても仕事ができず、テレビなどで自分の死亡説を耳にしたであろうこの時期は、大変つらい時期だったに違いありません。
最初の大腸がんの時に会見で病名を公表したことにより仕事がなくなった経験があったので、2度目以降のがんについては公表をしないことにしたといいます。
「絶対に医者を信じて。」とメッセージ
数度のがんを経験した黒沢さんは、テレビのバラエティ番組「バイキング」に出演した際に、このように話しています。
「医者を信じて。水で治るとか、サルのなんとかで治るとか、祈祷で治るとか、一切信用しちゃダメ」「僕が助かっているのは、お医者さんを信じているから」
ガンで8回の手術を経験し、その都度乗り越えてきた黒沢さんだからこそ言える言葉でしょう。現在は、健康状態は良好で、ジムでの筋トレ、テニス、ゴルフに励み、精神的にも何も不安がない状態であると話しています。
黒沢年雄は借金があった?
黒沢年雄さんは、ある事情により多額の借金を背負ってしまったことが知られています。黒沢さんは、いったいなぜ、多額の借金をすることになってしまったのでしょうか。
8億の借金を抱える
2018年にテレビの番組「明石家さんまのコンプレッくすっ杯」に出演した際に、黒沢年雄さん本人が、過去に総額8億円以上の借金を背負っていたと話しています。「金利だけで毎月500万円支払っていた」ということです。
不動産の投資で失敗
俳優、歌手として成功した黒沢年雄さんは、バブル絶頂期であった1984年に1億5000万円で自宅の豪邸を購入しました。1986年にはその評価額は購入時の4.5倍を超える7億円にまで高騰しました。
その後も都内の不動産を購入し、不動産業とカラオケ店の経営にも手を広げ、ピーク時の資産総額は16億円になりました。しかし、1991年にバブルが崩壊。不動産価値が暴落し資産総額は3分の1まで下がり、手元には借金8億円が残ったといいます。
2015年に完済
折しも、黒沢年雄さんの俳優の仕事は、世代交代の時期と重なり減少傾向でした。当時を振り返り「非常に困った。その時バラエティのオファーがあった。”役者はしゃべるな”と教わってきたし、バラエティか…と思ったが、仕事がなかったので」と語っています。
借金の返済額は利息だけで月500万円にもなりました。そのため「帽子を被ったり、髭を蓄えたり、色々勉強した」という通り、バラエティで売れるための研究を重ね、現在のように多くのバラエティ番組からオファーが来るようになり、借金は2015年に完済しました。
黒沢年雄は結婚している?現在は?
黒沢年雄さんは、1976年にモデルの街田リーヌ(本名:街子)さんと結婚し、1977年に長女のレイラ(本名:裕美)さんが生まれました。ここからは、黒沢さんの奥さんと娘さんについてご案内いたします。
モデルの街田リーヌと結婚
1976年に結婚した奥さんの街田リーヌさんの結婚前の本名は宮崎街子さんといい、当時はモデルの仕事をしていて、パリのファッションショーの仕事もしていたといいます。芸名「リーヌ」が外国人風ですが、生粋の日本人の方です。
黒沢年雄さんからリーヌさんに猛アタックをかけて、お二人は結婚にいたったといいます。リーヌさんは現在、モデル事務所の”SOS MODEL AGENCY”に籍を置き、今もモデルの仕事を続けています。
娘の「黒沢レイラ」も芸能界に
黒沢年雄さんと街田リーヌさんの一人娘の黒沢レイラ(本名:裕美)さんは、お二人が結婚した翌年の1977年に生まれました。
20歳の時に黒沢レイラの芸名で女優デビューしましたが、今は芸能活動はしていません。その後渡米し、アメリカ人の夫と結婚して子供も生まれ、現在はご家族でロサンゼルスに住んでいます。
また、不動産コンサルタントの仕事をしていて、ロサンゼルス空港に近いショッピングモール内にオフィスを構えています。
NHKBSプレミアムの「ラギッド!」に出演
黒沢年雄さんは、NHK BSプレミアのザ・プレミアムで2015年2月に2回にわたり放送された「ラギッド!」に出演しました。その後、2015年9月に未公開シーンと追加収録分を加えて放映された「ラギッド!(完全版)」にも出演しています。
このドラマで黒沢年雄さんは、年金資金運用会社の詐欺行為で3億円ものお金を騙しとられ自殺した父の後を継いで車の整備会社の社長となった10歳の少女乃亜ちゃん(芦田愛菜)が、騙し取られたお金を取り返えすのを助ける鍵師の役を演じました。
小学生の少女である乃亜ちゃんが社長になって活躍するという設定の目新しさや、だまし取られたお金の奪還計画を助ける一癖も二癖もあるシルバー世代とのやり取りの面白さもあって大人気のドラマでした。今でもドラマの続編を期待する声が絶えません。
黒沢年雄さんのこれからが楽しみ
黒沢年雄さんは、20歳で俳優デビュー後、多くの映画やテレビドラマに出演し、歌手としてもヒット曲を出しました。今はたくさんのバラエティ番組に出演し、その明るくお茶目なキャラクターで人気者となっています。
私生活面では、多額の借金を抱えたこともありましたが、それも今はすべて完済しています。健康面では、過去にがんを患い死亡説が流れたこともありましたが、8回の手術を乗り越えて、今は健康を取り戻しています。
逆境にあっても決して諦めず、逆にピンチをチャンスに変える前向きさと明るさこそが黒沢さんの魅力であり、素晴らしさといえるでしょう。波乱に満ちた黒沢さんの人生を振り返った時、ピンチに陥った黒沢さんを支えたのは、家族の存在だったのではないでしょうか。
シルバー世代となった黒沢年雄さんが、これから俳優、タレントとしてどのように活躍をしていくのかが、とても楽しみです。