- えたひにんの意味!江戸時代に確立した部落差別の今を紹介!
- えたひにん(穢多・非人)の意味
- えた(穢多)とは
- えた(穢多)の多くは革職人
- ひにん(非人)とは
- ひにん(非人)の足洗い制度
- えた(穢多)とひにん(非人)の違いは?
- えたひにん(穢多非人)の立場と生活
- 士農工商の下である穢多・非人
- 士農工商制度は中国より伝来
- 穢多・非人の生活は?
- 住居する地域に制限がある
- 仕事は限定される
- えた・ひにんの下は存在する?
- えたひにん(穢多非人)が多い地域
- 多かった地域【福岡】
- 多かった地域【京都】
- 多かった地域【広島】
- 多かった地域【愛媛】
- かつて多かった地域でも減っていることも
- 同和問題の看板を掲げている地域には多い
- 山梨のエッタ・野守など呼び方が違う場合も
- えたひにん(穢多非人)に多いとされる苗字
- 多いとされる苗字①東西南北が入る
- 多いとされる苗字➁牛島など動物の漢字が入る
- 多いとされる苗字③皮などの漢字が入る
- 多いとされる苗字④川の字が使われている
- ひにん特有の苗字はなく種類がある
- ホームレスである野非人
- 近親相姦などをおかした抱非人
- えたひにん(穢多非人)の当時の存在意義
- 農民の不満のガス抜きに作られた存在
- 死にまつわる仕事をさせるために存在
- えたひにん(穢多非人)のその後は?
- 明治に入り「身分解放令」で解放
- しかし「新市民」とされ差別をうける
- えたひにん(穢多非人)差別は現在もある?
- 結婚や就職で出自を調べられることも
- 荒れた地域は元部落の疑惑がかかる
- 転居時などに不動産屋に知らされる
- えたひにんや部落への差別をやめよう
- 日本は差別について真剣に取り組むべき
えたひにんの意味!江戸時代に確立した部落差別の今を紹介!
「えたひにん(穢多非人)」という言葉を聞いたことがあるという人は比較的多いです。学校で習う歴史の授業で学ぶ機会があるからです。
しかし、その意味を知っていて正しく説明できる人は少ないです。過去の出来事として、授業が終わってしまえば、記憶にとどめておくほどのことではないと考えている人が多いからです。
えたひにん(穢多非人)とは、江戸時代に確立された身分制度の中で最低身分を指す差別的な呼び名です。しかし、この身分差別は過去の出来事とは言い切れません。
えたひにん(穢多非人)が影響する身分差別は現在も色濃く残っていることが事実です。そこで今回は、えたひにん(穢多非人)の意味や現在の状況を紹介します。
えたひにん(穢多・非人)の意味
えたひにん(穢多非人)とは「えた(穢多)」と「ひにん(非人)」を合わせた名称で、江戸時代に確立された身分差別で使われる言葉です。
えたひにん(穢多非人)と呼ばれる人は、江戸時代の身分制度の中で最も下に位置する身分を与えらた人たちです。そのため、多くの人が厳しい身分差別を受けて、苦しい生活を余儀なくされていました。えた(穢多)・ひにん(非人)と呼ばれる人の意味や違いについて詳しく説明します。
えた(穢多)とは
えた(穢多)の意味とは、日本仏教の神道にある概念のひとつ「穢れ(けがれ)」を基にした「穢れの多い仕事」に従事することに由来します。
えた(穢多)の起源は古いといわれていて、古代の奴隷を起源とする見解もありますが、明確な起源は定かではありません。厳しい年貢から逃亡した農民とする説や、皮革加工を起源とする説、中世の元寇に由来する説など様々です。
鎌倉・室町時代には寺院や神社に従属する手工業者や雑芸者に対してえた(穢多)と呼んでいましたが、社会的身分が確立していなかったのでそれほど差別的な影響はありませんでした。
しかし、江戸時代にはえた(穢多)差別が確立され、その名称は明治時代に廃止されるまで続きました。えた(穢多)は仕事とは関わりなく、親子代々継承しなくてはならない身分差別でした。
えた(穢多)の多くは革職人
動物の皮を加工するという行為は仏教の教えを背く卑劣な行為でした。そのため、動物の皮を加工する仕事に就くえた(穢多)は最低ランクの身分になりました。
江戸時代に優位に立つ武家社会では、動物の皮の加工は必要なものでした。戦う道具や衣装として、革製品が必要だったからです。
えた(穢多)が親子代々継承しなくてはならない身分であったのは、その身分を放棄して皮革加工を仕事とする人がいなくなることを回避するためであったのかもしれません。
ひにん(非人)とは
ひにん(非人)の意味とは、犯罪を犯した者に由来します。ひにん(非人)は生計を立てるために、仏教の僧侶が行う「勧進」という布教活動の手伝いを行って暮らしていました。
勧進を行うために町や村には勧進場や勧進権があって、それらを独占して警護やよそ者の排除をする番人としての役割を与えられていたといわれています。
ひにん(非人)の足洗い制度
ひにん(非人)はえた(穢多)とは違って、「足洗い制度」が存在しました。功績をあげれば元の身分に戻ることができる制度です。功績といっても、基本はお金です。保釈金を納めることで、元の身分に戻ることができました。
えた(穢多)とひにん(非人)の違いは?
江戸時代になって身分制度が確立すると、武家時代の階級概念を元に「士農工商」という身分が作られました。士は最も身分が高い武家を指し、農工商は同じランクの身分の示す農民・職人・商人を示します。
そして、その士農工商からはるか離れたもっとも最低ランクにえた(穢多)・ひにん(非人)という階層が置かれるようになりました。
えた(穢多)とひにん(非人)だけで考えると、えた(穢多)の身分が上になります。しかし、えた(穢多)は親子代々継承しなければならない身分であったのに対して、ひにん(非人)は功績をあげれば元の身分まで戻ることができるものでした。
えた(穢多)からすれば、一生身分が変わらないけど下にひにん(非人)がいるという安心感がありました。ひにん(非人)からすれば、一番下の身分だけどえた(穢多)とは違って功績をあげれば上の身分に戻れるという希望がありました。
えたひにん(穢多非人)の立場と生活
えたひにん(穢多非人)は、江戸時代の身分差別のなかでも、士農工商とは別の最低身分でした。えた(穢多)やひにん(非人)はどういった立場で、どんな生活をしていたのかを説明します。
士農工商の下である穢多・非人
江戸時代に確立された身分制度で、士農工商の下にえたひにん(穢多非人)が配置されました。最低身分であったためにその差別は厳しいもので、一般人とは区別された生活を余儀なくされていました。
えたひにん(穢多非人)と呼ばれた人たちは、武士、百姓、町人から一線を置かれ、「人外」として扱われました。同じ人間以下の存在とされ、人間同士の付き合いからも排除されてしまったのです。
士農工商制度は中国より伝来
江戸時代に確立された身分制度の士農工商とは、もともと中国に古代から伝わる人民の構成要素を4種類に区別するための概念に基づいています。
中国の儒教において社会は、国家機関に属する「官史」、農業をする「農民」、熟練した技術で手工芸を営む「職人」、商売を職業とする「商人」の4種類の職業で成り立つと考えられていました。
同じように4種類の職業に区分しようとしましたが、江戸時代の身分制度では職業概念が実際の身分制度と異なっていました。
実際に存在した江戸時代の職業区分は、最も上位の「士」に武士を配置し、「農」には百姓、「商」には町人をあてはめました。江戸時代に「工」に当てはまる概念はなかったので、町に住む職人を町人、村に住む職人を百姓に区別しました。
百姓は農業に限らず、海運業や手工業で成功した者も含まれました。百姓と町人は「平人」としてひとくくりにされ、平人は武士に位が上がることも、えたひにん(穢多非人)に位が下がることも滅多にありませんでした。
穢多・非人の生活は?
えたひにん(穢多非人)と呼ばれる人は、江戸時代の最低身分です。そのため、地域で人間と扱われていませんでした。
一般の仕事をすることができないため、農業も工芸も商売もできません。また、祭事に参加されることすら許されていなかったので、地域で行う神社の祭事や神聖な催事に参加することもできませんでした。
えたひにん(穢多非人)は穢れている存在であり、神の前に現れることは神を汚すことを意味しました。人間としての立場すら与えられていないえたひにん(穢多非人)は、神の前で祈ることも悲しむことも禁止されたのです。
住居する地域に制限がある
えたひにん(穢多非人)は居住地域に制限がありました。自由に墓石を建てることすら禁じられていたそうです。
えたひにんは(穢多非人)は、村はずれや川のそばなどの不安定な地域に集められて、集落を形成して暮らしていました。
農業に適さない場所であったので、皮なめしなどの仕事がメインとなりました。動物の皮を扱う臭いは酷く、平民と離れた地域に追いやられていたとも考えられます。
えたひにん(穢多非人)の暮らす地域は「被差別部落」と呼ばれ、後にはその地域が「部落」と呼ばれるようになりました。
仕事は限定される
えたひにん(穢多非人)は一般の仕事をすることが許されていないので、決まった仕事に制限されました。
えた(穢多)の仕事とは、暮らす集落で農民が捨てたものや動物の遺体を集めることです。食料としたり皮革加工をしたりして生計をたてました。
ひにん(非人)の仕事とは、収容所の管理や、牢屋敷の詰番、囚人や財人の拷問や死刑の執行などです。刑場の管理や死に関わる仕事をして生計をたてました。
えた・ひにんの下は存在する?
えた(穢多)とひにん(非人)よりも下の身分は存在しません。しかし、えたひにん(穢多非人)の中での身分差別が存在しました。
えた(穢多)は職業が変わっても親子代々継承される身分で変えることはできません。しかし、ひにん(非人)は足洗い制度で平民に戻ることができます。
さらに、ひにん(非人)は物乞いや物貰い、遊芸の特権が与えられていたのでお金を稼ぐことができました。保釈金を払うことで身分から解放されたのです。
えたひにん(穢多非人)が多い地域
先ほど説明したように、えたひにん(穢多非人)はあらかじめ地域が限定されている、被差別部落へ暮らさなければなりませんでした。そして、その被差別部落の多くは、西日本の地域に集中していました。
ここからは、江戸時代の日本でえたひにん(穢多非人)が暮らすことが許され、多く集まっていた地域を詳しく紹介します。
多かった地域【福岡】
福岡では、えたひにん(穢多非人)が暮らす被差別部落の数が最も多く、約600地域存在したといわれています。
江戸時代はロシアからの弾圧に対抗するため、現在の北海道にあたる蝦夷地を幕府の直轄地としていました。そして、福岡に北海道から東北地方、北関東地方に暮らしていた蝦夷(えみし)を連れてきて働かせていたといわれています。
その仕事の内容は、大宰府の重要地域を警備させることや、蝦夷地で伝統的に行われていた狩猟の技術から皮なめしなどをさせていました。
蝦夷地から多くの蝦夷を連れてきた、えたひにん(穢多非人)の仕事をさせて被差別部落に住まわせていたので、必然的に部落の数が多くなったといえます。
多かった地域【京都】
京都には、被差別部落が約200地域存在したといわれています。江戸時代の日本は京都を中心として発展しました。
そんな京都になぜえたひにん(穢多非人)が多く存在したかというと、聖なる天皇の概念を強くするために、穢れた存在であるえたひにん(穢多非人)を、人々に意識させる必要があったからだと考えられます。
そして、貴族層が多い京都では、平民による不満も多くその対策として身分制度をしっかりと認識させるために、えたひにん(穢多非人)を多く配置していたと考えられます。
また、人口が多いことで重要地域の警備をする人員が必要であったし、貴族層が要求する皮革加工品も多かったため、多くのえたひにん(穢多非人)が必要になったともいわれています。
多かった地域【広島】
広島には、被差別部落が約420地域存在したといわれています。広島の中でも、広島市西区の福島地区が最も大きい被差別部落の地域で、その規模は日本全国で5位以内に入るそうです。
広島には1889年に軍港が開設されました。そのため、日本海軍が必要とする牛豚肉を用意するための食肉市場が置かれました。そして、日本海軍が運ぶ遺体の処理や、捕らえた兵士を牢獄して警備するための施設も置かれました。
これらの仕事をさせるために、多くのえたひにん(穢多非人)が必要となって、付近に被差別部落の地域が増えたといわれています。
多かった地域【愛媛】
愛媛には、被差別部落が約400地域存在したといわれています。そして、その多くは海岸沿いの地域に集中していたそうです。
同じ四国の中でも、被差別部落の数が愛媛に集中して、海岸沿いに置かれた理由は水軍に関係すると考えられています。水軍とは海賊を指します。
日本中世の瀬戸内海では村上水軍が戦力を持っていました。江戸時代には長州藩の船手組となって海上を制圧していて、その警備や他の海賊対策のためにえたひにん(穢多非人)が必要となったといわれています。
かつて多かった地域でも減っていることも
かつてえたひにん(穢多非人)が多く暮らしていた地域でも、現在は暮らしている人の数が減っています。江戸時代から続いていた身分差別は、四民平等が謳われる明治時代の身分解放令によって事実上は廃止となりました。えたひにん(穢多非人)は自由を与えられ、暮らす地域や仕事も自由に選べるようになったのです。
同和問題の看板を掲げている地域には多い
現在、同和問題を看板に掲げている地域は被差別部落が多く存在していました。身分制度が無くなっても現在まで、えたひにん(穢多非人)であった人に対する、社会的な差別が残っているから問題になっているのです。この世系差別と社会差別を同和問題と呼んでいます。
明治時代の解放令によって、えたひにん(穢多非人)の法的な地位は平民と変わらないものになりました。しかし、精神的、社会的、経済的な差別は現在も色濃く残っているのです。
山梨のエッタ・野守など呼び方が違う場合も
山梨県では、えたひにん(穢多非人)のことを「エッタ・野守」という呼び方をする人が多いです。明治時代に、下級警察官を「番人」と改称する通達が出されました。しかし、多くの地方でひにん(非人)の異称であったため、反発されたことで撤回して「巡査」と改称されました。
しかし、その時に山梨県では、ひにん(非人)を「野守」という呼ぶことにして、下級警察官を番人と改称しました。
えたひにん(穢多非人)に多いとされる苗字
えたひにん(穢多非人)は総称であって苗字ではありません。一般の人は、えたびにん(穢多非人)であることを苗字の使われている漢字によって区別していました。えたひにん(穢多非人)の使った漢字や、多いとされる苗字を紹介します。
多いとされる苗字①東西南北が入る
えたひにん(穢多非人)に多いのは、東西南北の漢字が使われる苗字です。えたひにん(穢多非人)の中には、川漁師として働いていた人も多く存在しました。そのため、川の付近に被差別部落ありました。
川は東西、南北など流れる方向を示すことができます。えたひにん(穢多非人)が暮らす被差別部落が川の流れのどの位置に存在するかという意味で、川西や東川などといった苗字が使われることが多かったようです。
多いとされる苗字➁牛島など動物の漢字が入る
えたひにん(穢多非人)に多かったのが「牛島」など動物の漢字が入る苗字です。えた(穢多)は、農民が捨てた家畜や、死んでしまった牛や馬などを回収して生計を立てていました。回収した動物の皮を加工して商売を行っていたので、動物を意味する漢字が苗字に使われていました。
多いとされる苗字③皮などの漢字が入る
えたひにん(穢多非人)に多かったのが、皮や革という漢字が使われる苗字です。動物の漢字が使われるのと同じように、皮を加工しているといった意味で皮や革という漢字が苗字に使われました。
多いとされる苗字④川の字が使われている
えたひにん(穢多非人)に多いのは、川という漢字を使った苗字です。不安定な川の近くに暮らすえたひにん(穢多非人)は、川のそばに住むという意味で川という漢字が苗字に使われました。
浜の近くで浜川、森の近くで森川など、暮らしている地域が川のどのあたりなのかを意味するような苗字が多いです。
ひにん特有の苗字はなく種類がある
ひにん(非人)の多くは、罪を犯したことでひにん(非人)に身分が落ちた人です。そのため、苗字は生まれながらに持っていた苗字がそのまま使われている場合が多いです。ひにん(非人)には特有の苗字が付けられることなく、様々な種類があったといえます。
ホームレスである野非人
ひにん(非人)には2つの区分があって、そのひとつは追放刑や経済的貧困で逃げ出し宿を失い浮浪状態となった「野非人」と呼ばれるものです。これは、現在でいうホームレスに該当します。野非人の場合は、身元引受人の存在があれば戻ることが許されたといわれています。
近親相姦などをおかした抱非人
ひにん(非人)にある2つの区分のもうひとつは、代々の「非人素性」と「非人手下」という刑罰を受けて身分を落とした人を合わせた「抱非人」と呼ぶものです。
非人手下という刑罰は、男女関係で問題を起こした人や、違法な博打・盗みを行った人に下されました。
非人手下の犯科は、姉妹叔母姪などとの不倫や近親相姦をした人、心中をして生き残った男女、主人と下女が心中した時に生き残ってしまった主人、違法な博打に関わった人、別れた妻に傷を負わせた人、15歳以下で宿が無く盗みを働いた人、などでした。
えたひにん(穢多非人)の当時の存在意義
えたひにん(穢多非人)とは、当時どのような意義や意味を持って存在していたのでしょうか?江戸時代の身分制度は、何を目的としてあえて身分差別作りだしたのかを説明します。
農民の不満のガス抜きに作られた存在
江戸時代に確立された身分制度は、中国の儒教の教えを基にしたものでした。しかし、江戸時代の職業概念と儒教に登場する職業区分が異なるため、独特の分類を行うことになりました。
武士を最高ランクとして、多くの特権や経済的な援助を与えました。そして、その経済的な欲求を満たすために、多くの年貢や上納品の負担が余儀なくされる農民を次のランクに位置づけました。
その下には技術で物を作りだす職人、その下に生産には携わらずに物を販売する商人を位置づけました。しかし、実際の生活環境は武士の次は商人が稼ぎ、その次は職人が稼ぎ、最も貧困に苦しんだのは農民でした。
貧困した農民が不満を抱え、爆発することを避けるために作られた身分がえたひにん(穢多非人)です。事業に失敗した商人や、年貢を抑えきれず逃亡した農民、犯罪者を集めて、えたひにん(穢多非人)に配置しました。酷い扱いを受ける差別的な身分を配置して、農民はまだ良い方だと考えさせたのです。
死にまつわる仕事をさせるために存在
生きている存在は必ず死を迎えます。しかし、江戸時代の日本では殺生を禁じる仏教と、血を穢れとして嫌う神教の影響が強く、死体を扱うことは不吉なこととして避けられる風潮にありました。
そのまま動物や人間の死骸を放置するようでは生活ができません。死骸が元となって流行りの病が発生する恐れもあります。
そこで、商売に失敗した人や、経済的理由で逃亡した人、犯罪を犯した人を集めてえたひにん(穢多非人)という身分に位を落とし、埋葬等の死にまつわる仕事をさせるために存在させたといわれています。
えたひにん(穢多非人)のその後は?
えたひにん(穢多非人)に対する身分差別は、とても厳しく人間としての扱いをしてもらえないという過酷なものでした。この過酷な身分差別は、現在に近づくに連れてどのように変化して行くのでしょうか?えたひにん(穢多非人)がその後どうなったのかを説明します。
明治に入り「身分解放令」で解放
明治時代に入ると、「身分解放令」によってえた(穢多)の公称や、ひにん(非人)という罪を犯したものに与える刑罰が廃止されました。
これにより、えたひにん(穢多非人)と呼ばれることは無くなり、自由な人権が与えられることになりました。
しかし「新市民」とされ差別をうける
身分制度が廃止されることで、えたひにん(穢多非人)と呼ばれた身分の人々は「新平民」と呼ばれるようになりました。この新平民こそが、「一般の平民」と「えたひにん(穢多非人)であった平民」とを差別する区分になってしまったのです。
地域の間で差別の意識は色濃く残りました。しかも、皮革加工業の独占など特定業種の独占権利が奪われ仕事を失い、納税の義務や兵役の義務を新たに課されることになりました。
多くの新平民は経済的な貧困に陥り、民衆からは強い反発が起こりました。その反発は、明治政府反対一揆と呼ばれる打ち壊しが発生するほど大きなものでした。
えたひにん(穢多非人)差別は現在もある?
自分自身が該当しないがために、全くその差別の存在を気付いていない人が多いです。しかし、現在でもえたひにん(穢多非人)に対する差別は続いています。現在も残っているえたひにん(穢多非人)に対する差別が、どのようなものかを説明します。
結婚や就職で出自を調べられることも
えたひにん(穢多非人)の身分差別が解消された今も、同和問題として多く発生している差別が結婚や就職における差別です。
えたひにん(穢多非人)かどうかを出自を調べて、親子関係や世代関係、先祖に関して調べるという差別が現在も残っています。
結婚は家族の問題になります。えたひにん(穢多非人)が暮らしていた元被差別部落は、貧困層が集中していて地域的にも荒れている場所が多く好まれません。また、特に理由が無くても周りの風潮から避けようと考えてしまう人も多いです。
子供を送り出す親はシビアに考えます。結婚したことで今以上の幸せを手に入れて欲しいと願い、苦労が伴うかもしれないえたひにん(穢多非人)家系に入ることは避けてもらいと考えてしまうようです。
就職の募集では、どの企業も優秀な人材を集めようとしています。家庭環境を重視して貧困層で育った人や、十分な教育を受けられなかった人を避けようとして差別する傾向があります。
荒れた地域は元部落の疑惑がかかる
現在は同和対策が行われて解消されてきていますが、少し前までは元被差別部落の環境は良くありませんでした。
上下水道の整備が遅れていたり、舗装道路の整備が放置されていたりして荒れ果てている印象が強かったようです。そのため、現在も荒れている地域に対して、元被差別部落ではないかと疑いがかかるようになりました。
これは、えたひにん(穢多非人)が暮らしていた元被差別部落は、発展しない、汚い、荒れているという地域差別といえます。
転居時などに不動産屋に知らされる
被差別部落が多く存在した大阪府では、平成27年の人権問題に関する意識調査で住宅を選ぶ際に重視する条件を聞いたところ、「近隣に共和地区があると言われないか」と答えた人が13%以上いました。
宅建業務法第47条では、故意に事実をつげないことや不実のことをつげる行為は禁止されています。すなわち、住宅を購入する時や借りる時の判断で重要となる項目は隠さずに伝えなければなりません。
そのため、不動産屋はわざわざ元被差別部落であったことを知らせています。しかし、日本政府は平成22年このことについて、「そんなことは答えなくていいというのが宅建業法の47条であります」と回答しています。伝えなくても違反ではないということです。
けれど、えたひにん(穢多非人)に対する根強い地域差別が残っているからこそ、伝えなければ逆に批判されてしまうと考えて、不動産屋はわざわざ元被差別部落であったことを知らせているのです。
えたひにんや部落への差別をやめよう
現在もえたひにん(穢多非人)や、もと被差別部落であった同和地区に関する差別意識は続いています。都道府県や市町村には、過去20年の間に200件以上の差別的な問い合わせがあったといわれています。
こういった差別的な傾向は、特に年配者に強く残っています。しかし、幼いころから差別を目の当たりにした人には、年齢とは関係無く根強い差別意識が芽生えてしまいます。
過去の話であって、現在は何の意味も無い身分差別です。それぞれの人間が強い意志を持って、やめるべき差別だと認識することが大切です。
日本は差別について真剣に取り組むべき
島国である日本には、異端者を排除する差別的な考え方が古くから残っています。そのため、身分制度が廃止されて誰もが平等になった現在でも、誰かと比較したり、虐めたり、関わらないように避けたりする傾向が強いです。
これからは、世界中から日本に外国人が訪れます。今のように、差別的な考えを残していると、外国人を受け入れることができない頭の硬い国民だと思われていまします。
日本にとって、差別についてい真剣に取り組むことは急務だといえます。正しい知識と自分の意志を持って、差別をなくすよう働きかけましょう。