- 新潟少女監禁事件とは何か!?佐藤宣行や被害者のその後も解説!
- 新潟少女監禁事件の真相
- 事件1年前にも誘拐未遂事件を起こしている
- 下校途中の佐野房子さんを誘拐
- 被害者家族が捜索願を提出
- 被害者は9年2ヶ月後に保健師によって発見される
- 被害者は犯人宅で監禁されていたことが判明
- 新潟少女監禁事件での監禁生活とは
- 佐野房子さんへの卑劣な暴行
- 監禁中の佐野房子さんの衣類
- 監禁中の佐野房子さんの衛生面
- 監禁中の佐野房子さんの食事事情
- 佐野房子さんにトイレを使わせなかった犯人
- 犯人の家族は佐野房子さんを友人だと思っていた!?
- 佐野房子さんが救助された時の状況
- 犯人の佐藤宣行について
- 佐藤宣行の生い立ち
- 佐藤宣行の家庭環境
- 両親は佐藤宣行を溺愛していた
- 母親は気付かなかったのか?
- 肛門期のしつけに失敗した!?
- 肛門期の教育失敗が引き起こした代償
- 佐野房子さんはなぜ逃げださなかったのか?
- ストックホルム症候群?
- 自己防衛本能
- 歩ける状態ではなかった
- 新潟少女監禁事件における警察
- 誘拐未遂事件時の警察の対応がずさんだった
- 佐野房子さん発見後の対応もずさんだった
- 記者会見では事実と異なる発表
- 佐藤宣行の母親から相談があるも追い返した
- 県警本部長は接待麻雀を受けていた
- 新潟少女監禁事件におけるマスコミ
- メディアで被害者を実名報道し問題となる
- その後匿名報道に切り替える
- 佐藤宣行のその後
- 佐藤宣行に下った判決
- 佐藤宣行は2017年に出所
- 障害者手帳を支給されている
- 仕事はできない
- 母親は面会に行っていない
- 新潟少女監禁事件の現場となった家は?
- 佐藤宣行はどこにいる?
- 佐野房子さんのその後
- 発見当初はかなり衰弱していた
- PTSDに悩まされる
- 現在は普通に生活している
- 新潟少女監禁事件は様々な要素が交差する事件
新潟少女監禁事件とは何か!?佐藤宣行や被害者のその後も解説!
新潟少女監禁事件は、当時9歳だった佐野房子さんが誘拐され、9年2ヶ月もの間監禁された事件です。被害者である佐野房子さんは無事保護されたのですが、注目したいのは犯人の佐藤宣行の異常な行動、警察のずさんな対応です。
新潟少女監禁事件は、残虐性の高い事件として世間からとても注目されました。なぜこのような事件が起き、被害者救出までに時間が掛かってしまったのでしょうか?また、犯人である佐藤宣行とは一体どんな人物だったのでしょうか?
今回は、新潟少女監禁事件の全貌を詳しくまとめました。そして、被害者や加害者のその後の現在についてもまとめました。
新潟少女監禁事件の真相
新潟少女監禁事件は1990年11月13日、新潟県三条市で起こりました。そして、9年2ヶ月後の2000年1月28日に、佐野房子さんは無事保護されることとなりました。まずは、新潟少女監禁事件の概要をご説明します。
事件1年前にも誘拐未遂事件を起こしている
新潟少女監禁事件が起きる1年5ヶ月前の1989年6月13日、佐藤宣行は柏崎市内で9歳の少女に対する誘拐未遂で現行犯逮捕されました。その時に、懲役1年執行猶予3年の判決が下されました。
この事件は、佐野房子さんが被害者となってしまった新潟少女監禁事件とは直接的な関係はありません。
下校途中の佐野房子さんを誘拐
上記でご説明した事件のその後、佐藤宣行は執行猶予中であるにも関わらず、1990年11月13日の17時頃、三条市内で見つけた佐野房子を誘拐しました。佐藤宣行は誘拐理由について、「女の子が可愛かった、傍に誰もいなかったから」と語っています。
佐野房子さんの近くで車を停車させ、刃渡り14cm程のナイフで脅迫しトランクに乗せました。この時、佐野房子さんが騒ぐことを恐れ、粘着テープで目隠しし、両手や両膝を拘束して誘拐しました。
被害者家族が捜索願を提出
佐野房子さんは当時9歳でした。9歳の娘が19時45分を過ぎても帰ってこなかったため、駐在所に捜索願を出しました。当日、翌日を合わせて300人以上で捜索にあたりましたが、佐野房子さんの発見には至りませんでした。
被害者の特徴が書かれたビラを配る努力はあったものの、有力な手掛かりはなく、12月25日には捜索が打ち切られてしまいました。
被害者は9年2ヶ月後に保健師によって発見される
佐野宣行や母親については後程詳しくご説明しますが、母親は佐野宣行から家庭内暴力を受けていました。そのため、精神病院で治療を受けていましたが、家庭内暴力は日に日に激しさが増したため、医療保護入院をさせようと母親は決意しました。
2000年1月28日、佐藤宣行を強制入院させるために医療関係者、保健所職員などが自宅に向かいました。そこで被害者である佐野房子さんが発見され、その後、無事保護されることとなりました。
被害者は犯人宅で監禁されていたことが判明
被害者である佐野房子さんが無事保護されたその後、病院に車で向かうこととなりました。その車中で名前や住所などを確認した職員は、三条市で行方不明になった少女だと気付きました。
被害者が誘拐されたのが1990年11月13日だったため、9年2ヶ月が経過しており、その間長期に渡る監禁を強いられていたことがわかりました。これらの事実が、新潟少女監禁事件と呼ばれる内容です。
新潟少女監禁事件での監禁生活とは
新潟少女監禁事件で、被害者が監禁された9年2ヶ月という期間は決して短くありません。また、知らない男性に誘拐監禁されたわけですから、それ以上に時間は長く感じたことでしょう。
また、新潟少女監禁事件の被害者である佐野房子さんは当時9歳です。純粋な少女が負った心の傷は計り知れません。佐藤宣行が佐野房子さんを監禁していた間、2人はどんな生活をしていたのでしょうか?
佐野房子さんへの卑劣な暴行
新潟少女監禁事件で、佐藤宣行が佐野房子さんに行った暴行はあまりにもひどいものでした。佐藤宣行が外出する際、就寝する際は手足を緊縛し、脅迫の文言を浴びせ、ナイフで脅し、顔を殴打するといった行為が行われました。
その後、手の緊縛は解消されましたが、足の緊縛は続き、佐野房子さんの逃走意欲を削ぐ形となりました。また、ベッドから勝手に降りるな、暴れるなといった命令をし、これを破った際は暴行が加えられました。
監禁が始まり1~2年後には、スタンガンを使用した暴行も行われていました。大人でさえ痛みを感じるほどですが、佐野房子さんは騒ぐと暴行を加えられると理解していたため、声を出さないように我慢していました。
監禁中の佐野房子さんの衣類
佐藤宣行が少女の洋服を持っているわけもなく、衣類はボロボロになるまで着用させていました。その後、さすがに着れない程になってくると、近所のスーパーで洋服を万引きしていました。
お金がないという理由もありますが、成人男性が少女の洋服を買うと怪しまれるからという理由もあったようです。
監禁中の佐野房子さんの衛生面
新潟少女監禁事件では9年2ヶ月もの間監禁していたにも関わらず、お風呂に入れたのはたった1度きりでした。それが、佐野房子さんがあやまってベッドから落下し、埃まみれになってしまった時でした。
監禁中の佐野房子さんの食事事情
普段から母親が、佐藤宣行のために重箱詰めのお弁当を作っていました。監禁当初はそのお弁当を佐野房子さんに与えていましたが、高齢の母親の負担を考え、自らコンビニで購入してきていたご飯を与えいました。
しかしその後、佐野房子さんの足に痣があるのを発見し、その痣が糖尿病なのかもしれないと危惧した佐藤宣行は、佐野房子さんに与える食事を1日1食に減らしました。そのため体重が減少し、次第に体調を悪化させていきました。
佐野房子さんにトイレを使わせなかった犯人
佐藤宣行は強迫性障害を患わせており、極度の潔癖症であったため、他人の使ったトイレを使用できないほど生活に支障をきたしていました。そのため、自宅のトイレを使うことはなく、ビニール袋に排泄をして廊下に置くという生活をしていました。
佐野房子さんが監禁されてからも同様の生活をしていて、それは佐野房子さんにも強要していました。『潔癖症であれば排泄物を廊下に放置するという行為を汚いと思わないのか』と感じるかもしれませんが、佐藤宣行は強迫性障害が起因とされる潔癖症です。
そのため、一般的な潔癖症とは感覚が違ってくるのです。『他人の使用したトイレは不潔』けれども、『糞尿自体には不潔感を感じない』という感覚が生まれこのような生活をしていました。
犯人の家族は佐野房子さんを友人だと思っていた!?
新潟少女監禁事件が継続されている最中、佐藤宣行は佐野房子さんに対し、マンガや新聞、テレビ、ラジオで知識を付けさせ、時には自分の嗜好とする事柄について話したといいます。
そのため、同世代の友達のような感覚を佐野房子さんに覚え、「これからもずっと一緒に暮らしたい」と思っていたようです。
佐野房子さんが救助された時の状況
佐野房子さんが保護されたその後の検査では、著しい栄養失調、両下肢筋力低下、骨粗鬆症、鉄欠乏性貧血の疾患が見られました。
そして、監禁中は食事を十分に与えられず、ベッドの上から降りることが許されなかったため筋肉は著しく収縮していました。そのため、佐野房子さんは保護された時は1人で立って歩くという行為もできない状態でした。
犯人の佐藤宣行について
佐野房子さんを誘拐し、精神的にも身体的にも苦痛を負わせた佐藤宣行。彼が新潟少女監禁事件を起こしてしまった原因は、家庭環境や自身の性格が関係していました。新潟少女監禁事件を引き起こすほどの家庭環境とは、一体どんなものなのでしょうか?
佐藤宣行の生い立ち
佐藤宣行は1962年7月15日、タクシー会社に勤める63歳の父親と、38歳の母親のもとに生まれました。60歳を過ぎて子供を持つことはなかなか難しいですが、63歳で子供を授かることができた夫婦にとっては喜ばしい出来事だったでしょう。
佐藤宣行の高校時代はというと、『オカマ』と呼ばれるほどなよなよとした話し方をしていたそうです。それゆえに、特に目立つような存在ではなく、この頃から自分の殻にこもるようになってしまったようです。
佐藤宣行の家庭環境
佐藤宣行が暮らす家庭は、お世辞にも環境がいいとは言えない状態でした。家庭環境悪化の原因となっていたのが、佐藤宣行の不潔恐怖症という精神病でした。これは、ほんのわずかな汚れでも気になってしまう病です。
佐藤宣行が生まれたのは父親が63歳の時ですから、彼が中学生の時には70歳を越えていました。そのため、年老いた父親のことを薄汚いと認識するようになり、自身の不潔恐怖症のせいで父親を毛嫌いするようになりました。
そして、佐藤宣行の家庭内暴力が原因でついには父親が追い出される形となり、その後介護施設に入ったものの3年後に亡くなったようです。
両親は佐藤宣行を溺愛していた
佐藤宣行が小学1年生の頃、父親が新築で家を建て、2階の10畳程の部屋を彼に与えました。また、彼が望む物はなんでも買い与えられていたようです。両親にとっては高齢で授かることのできた子供だったため、このようにかなり溺愛されていました。
母親は気付かなかったのか?
9年2ヶ月も監禁されていたため、新潟少女監禁事件発覚後には『少女の存在は知らなかったのか?』という疑問が母親に投げかけられましたが、母親は少女がいたことを全く知らなかったと言います。
佐藤宣行は母親にバレないようにするため、佐野房子さんが物音を立てないように配慮し生活をさせていました。また、佐藤宣行は母親に対し「階段を上がるな」と命令していたこともあり、何年も2階へは上がっていないというのがわかりました。
そして佐野房子さんは、佐藤宣行が母親と一緒に住んでいることを知らなかったというぐらいですから、母親が佐野房子さんの存在に気付いていなかったのは本当のことかもしれません。
肛門期のしつけに失敗した!?
この新潟少女監禁事件において、肛門期というワードは一見関係なさそうに見えますが、実はこの言葉が重要なポイントになっています。まずは、肛門期とは一体なんなのかご説明します。
子供は何も知らない状態で生まれてくるので、2~4歳ぐらいの時期に親がトイレットトレーニングの教育を行います。この時期にしっかり教育をしないと、後々性格や自己規律に影響してくると言われています。
適切な排泄管理ができるようになると、『自信』『物を諦める能力』『我慢する能力』などが発達し、自立する能力が上がります。しかし、佐藤宣行にいたっては幼少の頃からなんでも買い与えられ溺愛されていたため、必用な教育を受けていなかった可能性があります。
肛門期の教育失敗が引き起こした代償
肛門期の教育といっても、過度に躾を行う人もいれば、全く躾をしない人もいます。そのため、教育方針によっては影響の及ぼし方が違ってくるんです。
佐藤宣行がどのような教育を受けたかまでわかりませんが、肛門期の教育に失敗することで『小児性愛』を引き起こす原因となる場合があるようです。
新潟少女監禁事件では、9歳の少女が被害者となっています。そして、これからも一緒に住むと断言していたぐらいですから、少なからず被害者に好意を寄せていたのでしょう。これらの行動については、小児性愛が関係しているからなのかもしれません。
佐野房子さんはなぜ逃げださなかったのか?
ネットやマスコミの中には、『なぜ逃げださなかったのか』という発言をする人も少なからず存在し、その言葉に憤りを感じます。しかし、佐野房子さんが拘束されていない時もあったため、そのような発言がなされたのかもしれません。
佐野房子さんは監禁中、どんな思いだったのでしょうか?また、逃げられなかった理由とはなんだったのでしょうか?
ストックホルム症候群?
新潟少女監禁事件において、佐野房子さんは『ストックホルム症候群だったのでは?』という意見がありました。これは犯人と長い間生活を共にすることで、犯人に対して心理的な繋がりを築こうと好意的な感情を持つことです。
海外では実際に、犯人に被害者が協力したというケースがあるため、新潟少女監禁事件の被害者もストックホルム症候群という意見が出たのでしょう。
自己防衛本能
ストックホルム症候群という意見はあったものの、精神鑑定医から否定されました。佐野房子さんによると、「佐藤宣行は気いらないとナイフを突きつけてきたから生きた心地がしなかった」と語っています。
また、「大声を出したくても押し殺した」とも語っています。逃げようとしたり、逃げているのが見つかったら殺されると思った佐野房子さんは、防衛本能としてあの家に留まっていたのです。
「憎いとか怖いとは、そんな感情を出すのももったいないほど、最低の人だ」「決して一緒にいたかったわけではない」とはっきりと語っていることから、彼女が佐藤宣行に対して憎悪を抱いていたことは言うまでもありません。
歩ける状態ではなかった
佐野房子さんが保護された際、1人で歩くことができない程に筋力が低下していました。監禁部屋は2階だったため、その足で階段を降りることは不可能な状態だったでしょう。
仮に階段を降りられても、立って歩けない佐野房子さんは見つかってしまう可能性の方が高いです。そのため、逃げ出したくても逃げ出すことができなかったという証明になります。
新潟少女監禁事件における警察
新潟少女監禁事件の内容はあまりに残虐性が高く、大きく注目される事件となりました。しかし、それとは別に注目されたのが、新潟少女監禁事件の警察のずさんな対応でした。
誘拐未遂事件時の警察の対応がずさんだった
新潟少女監禁事件の概要でお伝えした通り、佐藤宣行はこの事件の1年前に誘拐未遂事件を起こして現行犯逮捕されています。その時、柏崎市の性犯罪者リストに載せなければいけなかったはずが、そのリストから佐藤宣行の名前が漏れていたことが後々わかりました。
誘拐未遂事件と新潟少女監禁事件は直接的な関係はありませんが、もしリストに佐藤宣行の名前がしっかり載っていれば、新潟少女監禁事件で容疑者の1人として疑うことができたはずです。ここまで新潟少女監禁事件が長期化した原因は、警察が作ってしまったと言っても過言ではありません。
佐野房子さん発見後の対応もずさんだった
新潟少女監禁事件では、佐野房子さんが保護された時にもずさんな対応が見られました。佐野房子さんが保健所職員らに保護された際、警察に出動を2度要請したにも関わらずそれを拒否されたのです。
その時の内容が「そちらで住所、氏名をきいてくれ。そんなことまで押しつけないでくれ。家出人なら保護する」という返答でした。警察が事実上出動を拒否したととれる行為です。
記者会見では事実と異なる発表
佐野房子さんが保護された同日、三条署が会見を開きました。その内容を簡潔に説明すると、『病院で暴れている男がいる。そこに行方不明だった少女がいた』というものでした。被害者が発見されたのは病院ではなく佐藤宣行の自宅なので、警察は異なる事実を公表しました。
その公表には異なる点があると保健所所長が意見をしたことから、改めて発見時の行動が注目されました。警察は「男が大人しくなったので必要がなくなった」と保健所職員から言われたと公表しましたが、それも事実とは異なっています。その後も、警察が行ったずさんな対応の言い訳をするような会見が続けられました。
佐藤宣行の母親から相談があるも追い返した
佐藤宣行は、日頃から母親に対して暴力を行っていました。そのことを母親は警察へ相談に行っていたことがわかっています。しかし、「子供の暴力は保健所に相談してくれ」と警察に追い返されてしまいました。
警察と保健所の役割に違いがあるので仕方がないのかもしれませんが、そこで保健所へ紹介するなどの適切な対応を行っていれば、新潟少女監禁事件が早期解決していたかもしれません。
県警本部長は接待麻雀を受けていた
佐野房子さんが保護された後、行方不明になっていた少女保護の報告を受けていたにも関わらず、県警本部長らは図書券などの景品を賭けた接待麻雀を行っていたことがわかっています。その後はホテルに泊まり、翌日は食事や湖を楽しんだ後に帰庁しました。
報告を受けたにも関わらずすぐに帰庁しなかったことも問題ですが、報告を受けた際に『少女発見時の保護状況の虚偽発表を行うこと』に了承していたことは後に大きな問題となりました。
その後、この不祥事について謝罪はあったものの、局長と本部長は依願退職しています。他にも、保護状況虚偽、接待麻雀、出動要請拒否に関わった警察官は減給と注意の処分が下されました。
新潟少女監禁事件におけるマスコミ
新潟少女監禁事件では警察のずさんな対応が大きく取りあげられました。しかし、一部のマスコミにも注目が集まり批判されるという出来事がありました。
メディアで被害者を実名報道し問題となる
新潟少女監禁事件が発覚した際、地方紙の三条新聞は被害者である佐野房子さんの名前・写真・家族写真を報道しました。しかし、この報道に人権団体が抗議をしました。このことが後に大きな問題となります。
その後匿名報道に切り替える
三条新聞は被害者の実名・写真・顔写真を報道した後に、人権団体から抗議を受けることとなります。それをうけ、匿名報道へと切り替えが行われました。
なぜ三条新聞が実名などを報道したかというと、この新潟少女監禁事件は少女を探す目的で既に名前や顔が公表されていたからです。そのため、記者が『実名などを公表しても問題ない』という解釈をしてしまったのが原因です。
被害者が実名などを公表されるという報道は、現在でも珍しくありません。その原因としては、各マスコミによって報道基準が違うという事実があるためです。
佐藤宣行のその後
新潟少女監禁事件の犯人として逮捕された佐藤宣行。なんの罪もない少女を誘拐し、長期間の監禁を強いた極悪人です。佐藤宣行が新潟少女監禁事件中に行った行為は決して許されるものではありません。その後、佐藤宣行に下された判決、現在の姿はどうなっているのでしょうか?
佐藤宣行に下った判決
新潟少女監禁事件を起こした佐藤宣行には、最終的に懲役14年の判決が下されました。高裁では、逮捕監禁致傷の最高刑10年、窃盗(スーパーでの万引き)1年で計11年という判断に至りましたが、最高裁でその刑は軽すぎるという見方があり、懲役14年の判決になりました。
佐藤宣行は2017年に出所
新潟少女監禁事件の犯人として懲役14年の判決が下り収監されていましたが、公判中から減少していた体重が更に減少したため、補助が無ければ1人では歩けない状態となりました。そのため、医療刑務所に移され治療を受け、現在は既に出所しています。
障害者手帳を支給されている
新潟少女監禁事件で見られた佐藤宣行の不潔恐怖症は、刑務所内でも同じように起こっていました。そのため、刑務所で出される食事は食べられず、流動食を口にしていたといいます。また、精神薬が処方されていたという情報もあります。
これらのことから、現在佐藤宣行には障害者手帳2級が発行されています。障害者手帳を持つことで、仮に事件を起こしたとしても実名報道はされなくなります。
したがって、現在になって新潟少女監禁事件のような大きな事件を佐藤宣行が起こしたとしても、その名前は報道されなくなってしまうのです。
仕事はできない
佐藤宣行は障害者手帳2級が発行されています。2級というのは重度な障害を持つ人に与えられるものです。2級に区別される人は仕事ができないなど生活に支障をきたす人なので、手当や年金で生活していくことになります。
そのため、佐藤宣行は仕事をしていない可能性が高いです。万一仕事をしていたとしても、改名しなければ新潟少女監禁事件の犯人だということがバレてしまい、職を転々とするのを余儀なくされるでしょう。
母親は面会に行っていない
佐藤宣行が逮捕され、新潟少女監禁事件は幕を閉じました。佐藤宣行が収監されている時に、母親は認知症が進んでしまい介護施設へ入居することとなりました。それが2003年頃だったようで、それからは息子の面会には行っていないそうです。
そんな母親は、現在既に亡くなっているようです。新潟少女監禁事件が発覚した10年後ぐらいに亡くなったという情報があるので、服役していた佐藤宣行は母親の死に目にはあえていません。
新潟少女監禁事件の現場となった家は?
新潟少女監禁事件が起きてしまった家は、元々母親の持ち家でした。しかし母親が亡くなった現在、佐藤宣行が相続しています。また、現在になっても取り壊しはされていないようです。しかし、玄関の扉には板が打ち付けられていているため、現在人が住んでいる様子はないといいます。
佐藤宣行はどこにいる?
佐藤宣行が持ち家に住んでいない様子は、家のたたずまいを見てわかります。では、現在どこに住んでいるのかというと、千葉県千葉市という情報があります。
この情報は、事件を精力的に取材していたフリージャーナリストからの提供だといいます。しかし、千葉県千葉市に住んでいるとはいえ、近隣住民に新潟少女監禁事件の犯人だということが知れたら退去せざるを得ない状況になるでしょう。そのため、現在も千葉県に住んでいるのかは不明ですが、長く一定の地に住むというのは難しいでしょう。
佐野房子さんのその後
被害者である佐野房子さんが誘拐されたのが9歳の時でした。新潟少女監禁事件で強いられた9年2ヶ月という長い年月もの間、生きた心地がしない環境に置かれ暴力を振るわれていたということもあり、その後の様子が気になるところです。新潟少女監禁事件後、彼女はどのような生活をしていたのでしょうか?
発見当初はかなり衰弱していた
佐野房子さんが誘拐された後、新潟少女監禁事件中はベッドの上から降りることを禁じられていました。そのため、著しい筋力の低下がみられ、発見された当時は1人で歩行することが困難な状態で衰弱しきっていました。
新潟少女監禁事件で身体的に辛い思いをしたことはもちろんですが、多感な年ごろの少女が負った精神的苦痛は計り知れないものがあります。
PTSDに悩まされる
PTSD(心的外傷ストレス障害)は、強烈なショック体験などにより心に傷を負うことで、その経験に強い恐怖を感じてしまう心の病気です。佐野房子さんは新潟少女監禁事件中、何度もナイフで脅されたり、数々の暴力を受けたりしていました。
そのことが原因となり、新潟少女監禁事件からしばらくはPTSDに悩まされる形となりました。そのため、初めて会う人や異性に対して心を開くことができず、上手くコミュニケーションがとれないということがあったようです。
現在は普通に生活している
佐野房子さんは新潟少女監禁事件中、佐藤宣行に知性を埋め込まれていました。そのため、保護された時の知能はそれほど劣っておらず、両親などとの会話がしっかりとできたといいます。
現在の佐野房子さんの様子はというと、新潟少女監禁事件発覚後の2年後に成人式に出席していました。そしてその数年後には、自動車の免許を取得しています。その後、家族と旅行に出掛けたり、スポーツ観戦をしたりと平穏な日常を過ごしているといいます。
新潟少女監禁事件は様々な要素が交差する事件
新潟少女監禁事件の原因となったのは、犯人である佐藤宣行の自己中心的な性格(特徴)によるものでした。しかし、その性格を作り上げたのは家庭環境にありました。しっかりとした教育が施されていれば、佐野房子さんが誘拐されることはなかったかもしれません。
また、警察によるずさんな対応、不祥事がなければ佐野房子さんはもっと早くに保護されていたかもしれません。これらのことを考えると、この事件はいくつもの要素が交差していることがわかります。
新潟少女監禁事件の被害者である佐野房子さんが、2019年現在、どのような生活を送っているのか詳細は不明ですが、彼女に平穏な日々が訪れていてくれることを願うばかりです。
