- 日生学園第二高等学校はスパルタで有名?今現在は?
- スパルタな日生学園第二高等学校とは?
- 三重県に存在
- 全寮制の男子校
- 軍隊並みのスパルタ教育
- 厳しすぎて三重県から行政指導を受ける
- 教師からの内部告発
- 日生学園第二高等学校の厳しい校則とは?
- 男子は全員丸坊主
- 一日のスケジュール
- 朝4時に起床
- 清掃を兼ねた心行(しんぎょう)とは?
- 国旗、校旗掲揚して集団登校
- 放課後からも一切自由時間はなし
- トイレは素手で清掃
- 男女交際は厳禁
- 日生学園の恋愛事情
- 雨でも傘は使用禁止
- 返事は基本大声で
- 学校行事が無い
- 生徒の密輸?
- 生徒は席を離れてはいけない
- 文房具の購入は教師の許可が必要
- 制服は2種類
- 日生学園の食事
- テスト前は教師が事前に問題を発表
- 帰省
- 帰省当日の様子
- 帰省期間はどのくらい?
- 日生学園第二高等学校での事件やエピソード
- 教頭がベルトのバックルで生徒を怪我させる
- 上級生のしばき
- 「しばき」の内容とは?
- 脱走事件
- 原因不明の死亡事故
- 野球部の不祥事
- 日生学園第二高等学校の卒業生の芸能人・有名人
- ダウンタウンの浜田
- ダウンタウン浜田も脱走経験あり
- 今田耕司
- 上級生からの厳しい指導に耐えられずに脱走
- 二度目の脱走
- 学校に戻ると言うまで殴り続ける
- 鮫島秀旗
- その他にも多くの有名人
- 日生学園第二高等学校の現在は?
- 現在は青山高等学校
- 姉妹校も全て校名を改めて進学校へと変換
- まともな学校へと変わる
- 現在も校則は厳し目
- 今現在も変わっていないもの
- 偏差値は現在も低いまま
- 厳しい環境・指導で得る事のできるもの
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日生学園第二高等学校はスパルタで有名?今現在は?
お笑いタレントでも有名な、ダウンタウンの浜田雅功が卒業生である日生学園第二高等学校は、日本一のスパルタ教育でも全国的に有名で、その行き過ぎたスパルタ教育により当時は脱走者、退学者、更に死亡者まで出てしまう事件にまで発展しました。今現在では日生学園第二高等学校はどうなっているのか。詳しく説明していきます。
スパルタな日生学園第二高等学校とは?
スパルタ教育で有名な日生学園第二高等学校とは、いくつもの姉妹校を持っていて、創始者でもある青田強学長の教育方針により「一流の人間を育てる」という方針故に学力の低い者、不良、不登校児などを優先的に受け入れて、スパルタ教育をしていたと言われています。その教育方針は軍隊並みだった様で、テレビや雑誌などでも取り上げられる事もよくありました。
三重県に存在
日生学園は第一から第三学部まであり、所在地は三重県の津市に存在していました。その日生学園第二高等学校は、学園内部に本部を持っている学校法人となります。三重県の山奥に存在するため、世間から隔離され外部からの情報などは一切遮断された状態になっていました。
全寮制の男子校
日生学園第二高等学校は徹底したスパルタ教育を行っていましたので、男子校をイメージしがちですが、実は日生学園第二高等学校は女子生徒が全体の2割ほど在籍している男女共学の学校なのです。さらに全校生徒が、毎日同じ建物の中で寝泊まりしている環境になっていました。
軍隊並みのスパルタ教育
日生学園第二高等学校の厳しいスパルタ教育は、当時日本一の厳しさとされ軍隊並みだったと言われています。教師からの教育的指導という名目の暴力や、????咤激励がそれに当てはまります。生徒が間違った事や校則違反をした時など、指導という名の下に行われていました。
日生学園第二高等学校は、この厳しいスパルタ教育が習慣化していて、生徒が本当に悪かったのかどうかにも関わらず毎日行われていました。
厳しすぎて三重県から行政指導を受ける
日生学園第二高等学校の厳しいスパルタ教育によって、数々の脱走者、退学者、更には死亡者がでる事件といった不祥事が公になり、三重県から行政指導を受け、教育スタイルを変えざるを得ない状態になりました。日生学園第二高等学校は、一体どんな厳しいスパルタ教育をしてきたのでしょうか。詳しく説明していきます。
教師からの内部告発
日生学園のスパルタ教育は、生徒はもちろんの事教師にも適応され、ヘタをすると生徒よりも厳しい生活を強いられた様です。その扱いに耐え切れなかった日生学園の教師が、内部告発をしたことにより、三重県の政治家たちが動いたと言われています。
日生学園第二高等学校の厳しい校則とは?
日生学園の厳しい校則とは、教育的指導という名の下に行われる暴力や????咤激励の他にも、日生学園が全寮制であるが故に、生徒たちは24時間自由が無かったと言われています。日生学園ならではの学校生活や寮生活においての、数々の変わった厳しい校則や風習がありました。日生学園のその変わった校則や風習について説明していきます。
男子は全員丸坊主
日生学園では、男子生徒は髪型にも厳しく、全員丸坊主を義務付けられていました。長さは5厘という思い切った短かさで、定期的に学校行事としてバリカンで散髪します。散髪した後は流しますが、真冬の寒空でも流すのに使用されるのは水道の水のみとされている過酷さが日生学園ならではのやり方だと言われています。。
一日のスケジュール
日生学園は全寮制の学校であるため、男子も女子も全員寮に入り共同生活をしています。学校の寮であるため、生徒たちには起床から就寝までの一日のスケジュールが組まれています。そのスケジュール自体が軍隊並みの厳しさを持っています。そんな日生学園の一日のスケジュールについて説明していきます。
朝4時に起床
日生学園の寮生活において生徒の起床時間は、朝4時だったそうです。朝4時と言うとまだ朝日も上がらず真っ暗な時間帯です。しかし、毎日というわけではなかった様です。水曜日と日曜日以外が朝4時起床となり水曜日と日曜日は朝7時起床だったそうです。
清掃を兼ねた心行(しんぎょう)とは?
起床してからすぐに点呼、着替えをした後清掃を兼ねた心行(しんぎょう)という日生学園独自の、雑巾を持って、足を大きく広げた体制で一心不乱に大声を張り上げながら、床を磨くという業の様なものを、各部屋各10分間ずつ全ての階の全部屋において行い、その後、生徒全員が道場と呼ばれる体育館に集まり、1時間の心行を行うそうです。
この日生学園の異様な光景は、今現在でもTwitterなどで日生学園の生徒は、キチガイ集団だとかなりの声が挙がっています。
国旗、校旗掲揚して集団登校
日生学園は、全員寮生活のため朝の心行の後食堂前に集合して国旗、校旗を掲揚します。雨天は掲揚せず晴れた日のみ掲揚するそうです。その後食堂で朝食を摂り、校歌を歌い、集団で6㎞の道のりを集団マラソンで登校していたそうです。日生学園の授業は午前中4時間昼食をはさみ、午後1時間の計5時間の授業スタイルだったそうです。
放課後からも一切自由時間はなし
日生学園は、全員寮生活のため下校も集団下校します。放課後点呼を取ってジャージに着替えてから心行を行い、朝と同じように6kmの道のりを集団マラソンで帰寮します。到着の点呼の後に自習時間となります。階ごとに順番に風呂に入り食堂前に集合し国旗、校旗を降ろし夕食となります。
その後、自習時間の後消灯となりますが、そのスケジュールの中で自由時間というものは一切ありません。日生学園の厳しい規則において授業の休み時間や食事中であっても24時間私語禁止とされ、更にはTV、ラジオ、新聞、雑誌などの娯楽が一切禁止だったそうです。
トイレは素手で清掃
日生学園での変わった風習として有名なのが、トイレ清掃の際は素手で便器を磨かないといけないそうです。どういう理由で素手で便器を磨かせるのか、真意は不明なままです。これも日生学園ならではのスパルタ教育の一貫として、有名なエピソードと言われています。
男女交際は厳禁
日生学園は、男女生徒全員が同じ寮での共同生活となりますが、男女交際は厳禁とされていて、男子生徒が女子生徒と交流はほぼできないそうです。男子生徒と女子生徒が一緒に居るところを見つかっただけで、厳しい罰や退学になる可能性があったそうです。
日生学園の恋愛事情
当時の日生学園においての男子生徒と女子生徒の比率は8対2の割合でした。しかしながら、女子生徒に対して全く色気を感じていないという男子生徒が多くいたそうです。
当時の女子生徒は、毎日の心行を行う際に「ワッショイ!」という大声を張り上げていたそうで、色気を感じなかったそうです。
当然化粧などもできるわけもなく、素朴なままなので当時の女子生徒に色気を感じる男子生徒は少なかったそうです。
雨でも傘は使用禁止
日生学園では、どういう訳か雨が降っても雪が降っても、傘の使用は禁止されていまし。降られたら、常に雨ざらしになっていたようです。そして体調を崩し40度の高熱が出ても、病院にも連れていってもらえなかったそうです。
返事は基本大声で
日生学園ならではの教育指導の一貫として有名なのは、返事は基本大声で返事しないといけないと言われていたそうです。歌も大声で歌う事を義務付けられており、校歌や応援歌など全ての歌を入学後3日間で覚えないといけないそうです。
大抵の生徒は、入学してから3日後には声が涸れてしまうそうです。卒業生でも有名なダウンタウンの浜田のあの声の大きさも、この学園生活で培われた賜物ではないかと言われています。
学校行事が無い
日生学園の変わったところと言うと、他の一般的な高校とは違い、修学旅行や体育祭、文化祭といった高校生活の中でも、思い出に残る様な学校行事が無いということです。唯一ある行事は男子生徒の散髪のみだったそうです。まさに厳しい指導だけを押し付けられる環境だった様です。
生徒の密輸?
日生学園の生徒は、全ての娯楽を禁じられ、お菓子や雑誌すら寮の持ち込む事が禁止されていました。とはいえ多感な高校生であれば、どうにかして寮に持ち込みたいと考える生徒が多かったと言われています。
そこで、生徒の親からの仕送り品(枕)などにお菓子や雑誌などを忍ばせ、密輸まがいな風習が広まったそうです。教師に見つかった場合は、もちろん厳しい体罰が与えられます。文字通り密輸と同様のスリルがある仕送りとなったそうです。
生徒は席を離れてはいけない
日生学園の生徒は授業中であれば、机の脚のパイプ部分に足を乗せたり、足を出してはいけないそうです。更には授業の休み時間であっても、トイレに行く以外で席を離れる事を禁止されています。もちろん私語も禁止だったそうです。
文房具の購入は教師の許可が必要
外界からの情報など全て遮断されて、軍隊並みの生活を強いられる日生学園の生徒は、もちろん現金の所持が禁止されています。でも文房具が消耗した時はどうするのでしょうか。
その際は購買手帳というものに必要な文具を記入して、朝の時点で担任の先生に提出し、担任の許可が出た品のみを購買部で購入できるそうです。
制服は2種類
日生学園には普段の制服と、帰省用の制服と二種類の制服があったそうです。普段の制服は、上着に短い特攻服の様なブレザーを着用し、中に薄いブルーのYシャツ、男女ともズボン着用で、帰省用は上着は普通のブレザーになります。Yシャツは同じで、女子生徒はスカートとなり銀のネクタイといったよそ行きの制服になるそうです。
靴、靴下は学校指定で下着は白のみ着用で、制服以外は常にジャージのみの着用が、義務付けられていた様です。
日生学園の食事
日生学園は全寮制であるが故に寮で食事が出ますが、ここにも厳しい規則がありました。食事は上級生が箸をつけるまで、下級生は食べることができません。下級生はたとえ食事中であっても、上級生のおかわりを取りに行ったり、上級生が食べ終えたら箸立てを差し出していたそうです。
また食事のメニューも、小石の混じった冷めた麦飯など味付けも不評で、お世辞にも美味しいと言えるものではなかった様です。一時期食中毒騒ぎもあったそうです。もちろん食事中も私語禁止だったそうです。
テスト前は教師が事前に問題を発表
日生学園の生徒は、テスト前日には消灯後も勉強を許されていました。というよりは、むしろ自由ではなく、強制的に教師がテスト問題を発表して、生徒はそれを写して自分で問題を解いて、答えを丸暗記する必要がありました。
なぜ、教師がこの様な事をするのでしょうか。それは生徒たちの点数が低かったりしたら、教師自身の評価が下がるだけでなく、教頭から「何を教えている?」と殴られるからだと言われています。
帰省
日生学園の生徒は、毎日自由の無い生活を送っていますが、年に2回だけ自由な時間を、手に入れることができたと言われています。それは、夏休みと冬休みの2回に家族の待つ自宅へと帰省するからです。
生徒は帰省の数日前から「あと何日で下界だ」と指折り数えるそうです。下界というのは、日生学園自体山奥の隔離された場所に存在し、全ての娯楽を遮断され自由の無い生活を送っているため、山の下にある世界即ち下界という表現をしていたと言われています。
帰省当日の様子
帰省当日は朝4時に起床して、いつも通りに朝の日課である清掃を兼ねた心行を行い、帰省用の制服に着替えてから、朝食後食堂前に集合しマイクロバスで最寄駅に向かいます。バスが校門を出る瞬間には、自由になれる喜びからか、拍手喝采が巻き起こるそうです。
帰省期間はどのくらい?
日生学園の休みの帰省期間はどのくらいなのでしょうか。夏休みであれば、一般よりも短く3週間くらいで、冬休みは20日間位と若干長めとなります。帰省期間中は、課題も日課もなく宿題も出されずに、全て自分の時間として使う事ができます。
そのためか、帰省期間が終わる数日前になると、また「あと何日でまた地獄か」と指折り数え始めるそうです。
日生学園第二高等学校での事件やエピソード
日生学園において1970年代から1980年代にかけて、日々教育的指導という名の下に、教師からの執拗な暴力等をうけているのは日常茶飯事でしたが、どのような暴力事件があったのでしょうか。詳しく説明していきます。
教頭がベルトのバックルで生徒を怪我させる
毎日の日課である朝の国旗、校旗掲揚の時に教頭に????られた生徒が、教頭の引き抜いたベルトのバックル部分の金属で、で頭を叩かれ血を流す怪我をしました。その際に横にいた女子生徒が、ハンカチでその血を抑えようとしたことに対し、教頭が説教を続けて処置をさせなかった事もあったそうです。
上級生のしばき
日生学園の寮生活では、一部屋が大部屋で最大48名までが共同生活し、一部屋に対し一年生から三年生までが一緒に生活します。そこで上級生から下級生に対し「しばき」という暴力が、毎日の様に行われたそうです。
その「しばき」には、1時間コースと朝までコースまでがあり、酷い場合には体に跡が残り、1か月は消えないそうです。その「しばき」が原因で精神的に病んでしまった生徒も出たと言われています。
「しばき」の内容とは?
一年生は「奴隷」と呼ばれ、挨拶が無かった等の理由で「しばき」という暴力を受けます。その内容とは、パイプ椅子で数回殴られたり、一晩中正座をさせられホウキの棒の部分を足に挟ませられ、そのホウキに上級生が乗ったり、ホッチキスを開いた状態で叩かれ、肌に針が刺さるということもあったそうです。
脱走事件
日生学園において有名なエピソードとして脱走事件もありました。日生学園の行き過ぎたスパルタ教育や、上級生からの「しばき」という暴力に耐えきれず、脱走を試みる生徒も多かったそうです。
脱走者が出ると、学校中にアラームが鳴り響き、脱走者の生徒が見つかるまでその学年の生徒は、連帯責任として正座させられるそうです。まさに軍隊や刑務所さながらです。
原因不明の死亡事故
行き過ぎたスパルタ教育で有名な日生学園ですが、ついに原因不明の、死亡事故までもが発生してしまったそうです。2009年に柔道部員が、練習中に原因不明の死亡をしたと言われています。当日は自主練習であったため担当の教師は、練習に立ち会っておらず、不適切な練習は行っていないと主張して、今現在でも原因は不明のままだそうです。
野球部の不祥事
日生学園の野球部も、2010年に不祥事を起こしていました。部員による喫煙や暴力といった不祥事を起こして、警告処分を受けていたこともあったそうです。
日生学園第二高等学校の卒業生の芸能人・有名人
行き過ぎたスパルタ教育で有名な日生学園は、偏差値も低く入試も、名前が書ければ合格というくらいの学校でした。数々不祥事や、暴力事件などのエピソードが後を絶ちませんが、その反面世に多くの芸能人・有名人を排出しているという実績も持っています。卒業生にはどんな有名人がいるのでしょうか。
ダウンタウンの浜田
ダウンタウンの浜田が日生学園に入学した理由が酷いhttps://t.co/EOJlw5eXo5
浜田の人格形成に一役買ったサイコパス学園。逃げ出した今田は今でも悪夢をみる模様(;^ω^) pic.twitter.com/07XfYEP4m3
— sakamobi.com (@sakamobi) January 2, 2019
日生学園の卒業生として最も有名なのは、あのお笑い芸人として有名な、ダウンタウンの浜田雅功がいます。在学当時のダウンタウン浜田は、スパルタ教育が激しかった時期に、他の生徒の見本となる副学寮長をしていた実績を持っているそうです。
ダウンタウン浜田も脱走経験あり
????マスゴミは森友学園攻めるなら、浜ちゃんが卒業した日生学園も取材しろよ。
浜田雅功の高校時代が凄まじい…!その高校生活の実態とは??|MARBLE [マーブル] https://t.co/zrPJN5JcM5 pic.twitter.com/fQGbaNg9lS
— 嫌韓嫌中 (@kenkan_kentyuu) March 6, 2017
ダウンタウン浜田も副学寮長まで務めましたが、常に学校の教えに従っていたわけではなく、何度か脱走を試みたと言われています。当時外部からの情報は学校行事にもなっている散髪時に、床にひく新聞紙から情報を得ていたそうです。
脱走した際に、当時からの友人であり今現在の相方であるダウンタウンの松本人志に、電車賃を持って迎えに来てもらい、途中でお腹が空いたため、立ち食いうどん屋でうどんを、人啜りで全部食べてしまったというエピソードも語られてました。
脱走はしたものの、副学寮長として務めあげて、無事卒業を果たしたそうです。
今田耕司
うちの母校じゃないっすか、、、、/ “ダウンタウン浜田雅功・今田耕司、母校・日生学園での地獄の日々を語る「世間からの隔離」 | 世界は数字で出来ている” https://t.co/1y3cdkQM8l
— 海猫沢めろん (@uminekozawa) August 10, 2014
同じく、お笑い芸人としてもダウンタウンの浜田とも交流のある今田耕司も、日生学園の在学経験を持っています。しかし、ダウンタウンの浜田とは違い、卒業はしていません。今田耕司の日生学園での生活はどうだったのでしょうか。
上級生からの厳しい指導に耐えられずに脱走
日生学園在学時の今田耕司は、まだ一年生で自由もなく、上級生からも厳しい指導という名の下に殴る蹴るなどの暴力を多く受け、耐えきれず一年生の秋頃に脱走しましたが、失敗に終わり連れ戻され、罰を受けたそうです。しかし今田耕司は、諦めずに二回目の脱走を試みます。
二度目の脱走
今田耕司は、二年生の夏頃事前に下見や研究を済ませて、皆が寝静まる消灯後、1階のトイレの窓から脱走します。すぐに教師が車で追いかけてくるので、草むらに隠れ山を2つ越えた先の駅にまで逃げ、予めパンツの中に隠していた、千円札を使い野宿をしながら電車に乗って、自宅へと帰りました。
なぜ、山を2つ越える必要があったのかと言うと、最寄駅に向かうと「脱走した生徒がいる」と、近隣に通報され見つかって、連れ戻されるからです。
学校に戻ると言うまで殴り続ける
無事脱走に成功した今田耕司ですが、日生学園側からの「退学の手続きをするので一度学校に戻って欲しい」と言われ学校に戻りました。
戻った席で教師から「君が学校に戻ると言うまで、僕は君を殴り続ける」と言われ5~6発殴られたところで心が折れ「続けます」と答え復学します。しかし、辛い生活に耐えきれず、冬休みの帰省の際に退学したそうです。
鮫島秀旗
日生学園の卒業生には、お笑い芸人だけでなくスポーツ選手も多数います。その一人がヤクルトスワローズの鮫島秀旗捕手です。あのスパルタな日生学園の野球部で活躍し、1991年にドラフト6位指名でヤクルトスワローズに入団し、現在はスタッフとしてブルペン捕手の仕事をしています。
その他にも多くの有名人
他にも日生学園の卒業生の有名人は多数います。プロサッカー選手の千葉和彦(ちば かずひこ)選手や尾崎瑛一郎(おざき えいいちろう)選手、元バスケットボール選手の川畑隼人(かわばた はやと)選手、プロボクサーの山口賢一(やまぐち けんいち)選手、お笑い芸人の田中なおき、元AV女優の日向まこ、人気Youtuberたれぞうこと、垂泰弘(たれ やすひろ)などが日生学園の卒業生だと言われています。
日生学園第二高等学校の現在は?
日生学園の現在はどうなっているのでしょうか。学園教師からの内部告発により、数々の事件が明るみに出た事により、国政調査が行われ、三重県からも日生学園に対し行政指導が行われました。校風も今現在一般の高校に比べるとかなり厳しいが、事件当時の日生学園と違い、今現在は行き過ぎたスパルタ教育が無くなり、緩やかになったと言われています。
現在は青山高等学校
日生学園は、三重県からの行政指導を受け、2000年以降に進学校へと転換するために、大学受験に向けた学習指導に力を入れ、当時の日生学園からは想像もつかない進歩を遂げました。
学校名も日生学園から青山高等学校へと改名し、主に基礎からの学習指導や、全寮制というメリットを利用して、通信制等の学校では成しえない、リーダーシップの育成にも取り組む様になりました。
昔から、不登校や不良の生徒を男女問わず、立派な社会人を育成するために、行き過ぎたスパルタ教育ではあったが、そのノウハウは確立されており、暴力的な教育方針を取り除けば、新しい教育ノウハウの誕生となります。
姉妹校も全て校名を改めて進学校へと変換
日生学園は複数の姉妹校を持っていましたが、その姉妹校も全て校名を改めて、進学校へと変換していきました。2015年4月1日日生学園第二高等学校は青山高等学校に、日生学園第一高等学校は桜丘高等学校へと、日生学園第三高等学校は自由ヶ丘高等学校へと、日生学園付属中学校は桜丘中学校へと改名し進学校へと変換していきました。
まともな学校へと変わる
かつては、行き過ぎたスパルタ教育で有名だった日生学園でしたが、今現在は、事件にまで発展した過去を省みてまともな高校へと変化してきました。
例を挙げると、制服がかつての特攻服の様な制服が、卒業生のデザインによりモノトーンを基調とした、スタイリッシュな制服に変わったり、修学旅行が始まり海外へ行けるなど、他の高校とさほど変わらない高校へなっていきました。
現在も校則は厳し目
他の高校とさほど変わらないくらいの高校へと、変貌を遂げた青山高等学校でも、行き過ぎたスパルタ教育は無くなったものの、校則は未だに厳しめだと言われています。特に生活面において、頭髪や服装、時間厳守には特に厳しいそうです。
しかし、その厳しい指導があるからこそ、不登校だった生徒等を、大学や専門学校へ進学させている実績があるのも事実です。
今現在も変わっていないもの
青山高等学校と改名して、より普通の高校へと変わっていった日生学園ですが、昔ほどのスパルタ教育ではないが、変わっていない面も残っています。例えば集団マラソンは、月曜日から土曜日まで、毎朝寮別のメンバーでの早朝マラソンを行っているそうです。
そして通行する車両に対し、立ち止まって礼をするのが慣例とされています。校則としての明記はありませんが、礼の方法というプリントを配布しているそうです。
大きなな声を出して必死に歌う特異な合唱指導があり、昔の日生学園時代と変わらずに、必死に大声を出して歌うそうです。
最後に恋愛禁止の徹底、密会に対する強い処分となります。男子と女子は寮で分かれて別々の生活となり、基本接触することは禁止となっておりますが、これは他の高校でも男女交際に関しては厳しい所もあるので、あまり大きな問題ではありません。
既に内緒で交際している男女もいる様なので以前よりは締め付けは緩くなったと言われています。
偏差値は現在も低いまま
日生学園当時の偏差値は、39といういわゆる底辺でした。入試も名前がかければ合格できる、と言われていました。今現在青山高等学校の偏差値は38~42の間で、日生学園当時とあまり大差は無いようですが、それには理由があります。
不登校、素行不良の生徒を積極的に受け入れて、その熱心な教育で生徒たちを大学や専門学校などへ、進学させている実績は素晴らしいものがあります。
厳しい環境・指導で得る事のできるもの
日生学園当時から続いている、厳しい指導で生徒たちが得る事ができるものがあります。「人は厳しい環境に身を置く事により成長する」前学長であり、創設者である青田強学長も「一流の人間を育てる」という方針で厳しい指導を行ってきましたが
そんな寮生活で得られる事ができるものとは、集団生活において消灯時間など、あらゆる時間において厳しい指導があり、自由は少ないですが、そういった集団生活を乗り越える事により、社会人として必要不可欠な「協調性」「忍耐力」が得る事ができます。
今現在日本において、厳しい指導に対して冷たい目で見られることはしばしばありますが、不登校の生徒を改心させ進学させる実績は、目を見張るものがあり、これから先の教育に必要になってくるはずです。
スパルタ教育を無くし、生徒を正しい道へ導く熱心な教育をする学校へつ変わった青山高等学校も、過去の日生学園時代から見て正しい方向へと変わりました。厳しい指導に偏見を持たずに、今現在の青山高等学校という学校を今一度見直すことも必要です。